平安前期日本漢文学の研究――「私」の詠出の軌跡――

廖 栄発

 

 本博士論文の目的は、平安朝の詩人たちがいかに漢詩を通して自己(「私」)を表現してきたかという視点から、平安朝詩史の構築を試みることである。本論文は、「第一部 島田忠臣の文学の位置」「第二部 菅原道真の文学の位置」「第三部 紀長谷雄の文学の位置」からなる。序章および附章を含めて、全十一章となっている。

 序章「平安朝漢文学の転調 ――「公」と「私」のあいだ――」では、紀長谷雄が「延喜以後詩序」(『本朝文粋』巻八)の中で語った、「公」の領域(公宴での作詩)よりも「私」の領域(独吟独作)を重んずる、という作詩態度の転換に関する宣言を手がかりとして、白居易の作詩における「公」と「私」とを比較しながら、本論文で注目する点を提示した。即ち、平安朝詩人の作詩態度における公から私への変化と、それに伴う詩風の変化である。この二点を念頭に置きながら、長谷雄に至るまでの平安朝詩史の変遷を整理してみた。

白居易の作詩における「公」は、政治や社会の問題を批判する「諷諭詩」の制作を意味するが、こうした認識は平安朝の詩人には、ほとんど見いだせない。勅撰三集の時代には、「文章経国」という理念の下、漢詩文の制作の意義が国家経営に結びつけられ、詩人たちの公的価値も保証されていた。当時の詩人たちにとって、天皇が主催する詩宴・遊宴に参加し、帝徳讃美(聖君謳歌)や聖代謳歌を主題とする詩を作り、文運隆盛の日本の治世を国内外に標榜・演出することが、彼らの作詩の第一義であった。今日の我々が慣れ親しんだ「私」(自己の私的心境など)を詠出するのは、決して自由にできたことではなかった。

 第一部第一章「「詩臣」としての島田忠臣」において、「文章経国」思想の退潮後、「詩人無用」論が言い立てられ、詩人の存在理由が疑問視されるなか、忠臣が(四時に天皇の恵みを歌う)「詩臣」の首唱者として、詩人の公的価値を見いだそうとしていたことを示した。従来、忠臣には菅原道真のような「詩臣」を実践する姿は見いだせないと言われてきたが、本章では通行本の『田氏家集』に採用されていない「詩臣」の用例を手がかりとして、忠臣の応制詩の詩型と応制詩における「個」の表出などの分析を行い、忠臣の「詩臣」観を明らかにした。

 第二章「島田忠臣の不遇と「大隠」」においては、忠臣における「仕」(公)と「隠」(私)を検討した。勅撰三集時代の文人と違い、忠臣の時代になると、宮廷詩人として天皇に仕えながら軒昂たる経国の志を高揚して国政に参画することは、もはやできなくなってしまった。こうした中、忠臣は、白居易文学を学びながら前代の文人の異なった処世観と生き方を摸索していった。本章は、官途に恵まれていない忠臣の不遇感に着眼して、彼が「大隠」という生き方を確立したこと、自適逍遥の心境を獲得したこと、そして自適空間を造営したことについて考察した。

 第三章「島田忠臣の交友と白詩」では、忠臣の交友関係(私生活)に注目した。主に忠臣の詩作にみえる、藤原基経や菅原道真との交友などの検討を通して、忠臣がいかに白居易文学を利用し、自らの交友世界を作りあげてきたかを明らかにした。

 第四章「島田忠臣の哀傷詩について ――和と漢のあいだ――」においては、人の死を悲しみ悼む忠臣の「哀傷詩」を取り上げて、その詩才の特異な一面を明らかにした。本章では、中国の哀傷詩との関係を述べたほか、日本の挽歌・哀傷歌の発想や詠法を忠臣が取り入れていることも示した。さらに、中国にも日本にも見いだせない忠臣の独自な詩想の展開についても考察した。

第二部第五章「「律詩の詩人」としての始発 ――省試詩の習作の再検討――」では、菅原道真の二つの省試詩の習作「賦得詠青」と「賦得赤虹篇」を検討し、道真が当初宮廷詩人としての道を目指していたことを確認した。この二つの習作の詩型や押韻の意義については、すでにさまざまな検討が行われてきたが、内容そのものの研究はまだ不充分だと思われる。特に、道真が白居易の諷諭詩から新たな典故を案出したことは、あまり着目されてこなかった。

 第六章「「讃州客中詩」の再検討」において、道真が讃岐守時代に制作した諷諭詩的な作品の検討を通して、「讃州客中詩」全体の再評価を試みた。白居易の作詩における「公」は諷諭詩の制作を意味するが、白居易の諷諭詩を模倣することがあまり見られない平安朝詩史においては、道真は異例と言わざるを得ない。本章では、白居易の諷諭詩との比較研究という従来の視点のほか、白居易の左遷時代に詠まれた感傷詩の受容という視点を導入して、「行春詞」と「路遇白頭翁」を考察した。両作品は、いずれも公的な性格を有する諷諭詩的な作品として扱われてきたが、その作品の背後には、実は道真の国守としての立場と詩人としての姿勢の葛藤が見られること、つまりここに「私」が存在していることを明らかにした。

 附章「「寒早十首」の再検討」では、「寒早十首」の背後に存在する「私」を考察した。まず、「同諸小児旅館庚申夜、賦静室寒灯明之詩」を取り上げ、そこに劉禹錫の不遇逆境時代の詩作の影響があることを明らかにし、「寒早十首」が創出された前後の時期の道真の不遇感を確認した。そして、「寒早十首」が採用している「次韻式連作」という特殊な詩型に注目した。この詩型は、白居易・劉禹錫・元稹の晩年の唱和詩群「春深二十首」を模倣したものと言われてきたが、本章では、この詩型が元稹が通州司馬左遷時代に創出した自唱自和の形式であることを指摘し、道真がまさにこうした自唱自和の形式に共感して「寒早十首」を創出したことを示した。

 第七章「「諫臣」としての軌跡」においては、道真の「諫臣」としての軌跡を検討した。従来の研究は、道真が詩の諷諫の使命を終始実践している、ということを前提としているが、本章では、道真における詩の諷諫の使命の実践と実際の諫言行為に焦点を合わせて再検討し、道真が天皇に諷諫を行う「諫臣」としての姿勢を、寛平三年に初めて表明したことを確認した上で、寛平五年以降、次第に脱政治的風流志向への傾斜を深めてゆく宇多天皇に対して、実際の諫言だけではなく、詩文をもってしても諷諫することに努める姿勢に注目した。また、そうした諷諫の姿勢には、道真自身の葛藤も内包されていることを明らかにした。平安朝詩史を俯瞰すると、そのような「諫臣」の姿は、道真にしか見いだせないものである。

 第三部第八章「紀長谷雄の「詩言志」宣言 ――「延喜以後詩序」を読み直す――」においては、『本朝文粋』(巻八)所収の「延喜以後詩序」を手がかりとして、長谷雄の作詩態度の変遷過程を明らかにした。本章ではまず、この「延喜以後詩序」の通行本の本文に、同じく『本朝文粋』(巻八)所収の「沙門敬公集序」の本文が一部混入したままになっている誤りを指摘した。その上で、「嘆白髪口号」などの詩作を検討して、長谷雄の詩風転換を確かめた。最後に、長谷雄の「対残菊待寒月」詩序(『本朝文粋』巻十一)をあわせて検討した上で、延喜以後の長谷雄が、「詩臣」として活躍してきた「公の詩言志」の世界とも、昌泰年間前後に形成されつつあった詩人派の間の「私の詩言志」の世界とも訣別して、「独吟独作」という「個の詩言志」の世界へ閉じこもっていった軌跡を明らかにした。

 附章「延喜以後の長谷雄の公宴詩について」において、前章で触れなかった長谷雄の延喜以後の公宴での作詩状況を考察した。特に、延喜二年作の「九月尽日惜残菊」詩序(『本朝文粋』巻十一)を分析し、詩友の道真が左遷されて逝去する前後に、長谷雄は公宴での作詩に対してかなり消極的な態度を取っていたことを明らかにした。

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