本論文は、十八・十九世紀の朝鮮通信使(一六〇七年から一八一一年まで全十二回派遣)と東萊倭館(和館、草梁倭館は一六七八年から一八七二年まで現・釜山で存続)の絵画活動を中心に、十七―十九世紀(近世)における日本と韓国の絵画交流の様相を分析・再考察することによって、その美術史的意義をより明確にすることが目的である。近世の日韓関係を支えた両大軸だった朝鮮通信使と東萊倭館は、国家によって海外への渡航が制限されていた海禁状態の時代において、日韓の絵画交流が行なわれた主要な場であった。したがって、近世の日韓絵画交流の全体像に近付くために、朝鮮通信使と東萊倭館両方の絵画活動を合わせて研究の視野に入れ、全七章の構成で論旨を進める。

第一章「十七―十九世紀における日韓絵画交流史の基本構造と時代区分」では、朝鮮通信使と東萊倭館という近世日韓関係の枠組みの中で行われた十七―十九世紀の日韓絵画交流史を、朝鮮通信使の派遣を基準として、模索期・発展期・成熟期・衰退期の四期に時代区分する。近世の全期における日韓絵画交流の歴史を概観することによって、本論文の本題である「近世日韓絵画交流史の成熟期」と見なした十八世紀後半から十九世紀前半までの時期の特徴をより効果的に伝えることに主眼を置く。第一章は、近世日韓絵画交流史の時代区分を新たに提示することで、このテーマに対する筆者の理解を明確にする論文全体の導入部である。

第二章「十七世紀後半―十八世紀前半における日韓絵画交流史の転換」では、論文の本題に入る前段階として、近世日韓絵画交流史の発展期(十七世紀後半―十八世紀前半)における絵画交流の中に現れた転換の様相を窺う。特に発展期最後の派遣となった一七四八年朝鮮通信使に参加した随行画員・李聖麟(一七一八―七七)が、大坂で大岡春卜(一六八〇―一七六三)とともに史上初とされる画家同士の私的な画会を開催したこと(『(桑韓画会)家彪集』)、そして別画員・崔北(一七一二―八六?)の場合には、一七四八年以降の日本側の文献資料においてより高く評価されたことに着目する。第二章では、成熟期に入る直前に派遣された朝鮮通信使の絵画活動に触れることによって、発展期と成熟期の連続性を示唆する。

第三章から第六章までは、本論文の本題として近世日韓絵画史の成熟期の様相に焦点を当てる。各章は時代の流れに沿って論じ、第三章と第五章は朝鮮通信使、第四章と第六章は東萊倭館の絵画活動を取り上げる。ただし、朝鮮通信使と東萊倭館という研究テーマは、これまでの研究史と研究成果の蓄積という面において明らかな差があるという事実を考慮し、異なる研究方法を用いることにする。朝鮮通信使の絵画活動については、既に膨大な研究成果が蓄積されている。したがって、近年紹介され、まだ十分な研究が行なわれていない作品を取り上げ、作品に関することにのみ焦点を絞って論じる。一方、東萊倭館の絵画活動については、二〇〇〇年代後半から本格的な研究が始まったばかりであるため、十年近くの研究成果を再検討しつつ、新出の資料を紹介することに主力する。

第三章「一七六三―六四年朝鮮通信使と木村蒹葭堂筆『蒹葭堂雅集図』」では、一七六三―六四年朝鮮通信使の正使書記・成大中(一七三二―一八一二)が大坂の文化人・木村蒹葭堂(一七三六―一八〇二)に制作を依頼し、完成直後に朝鮮に伝えられた「蒹葭堂雅集図」(木村蒹葭堂ほか「蒹葭堂雅集詩文」所収、韓国・国立中央博物館蔵)について論じる。「蒹葭堂雅集図」は、制作経緯に関する記録(大典『萍遇録』など)が遺されており、木村蒹葭堂の初期の画業において重要な紀年作である。さらに、同・後代のソウルの朝鮮知識人ネットワークにおいて、最も賞賛された前近代の日本絵画であるため、近世日韓絵画史上、極めて特殊な位置を占めている。ゆえに、若き文人画家・木村蒹葭堂により日本で行なわれた制作の面、及び朝鮮で行なわれた享受・反響の面、両方に着目して作品を分析する。木村蒹葭堂が近世日本文人の姿を絵画化した「蒹葭堂雅集図」は、朝鮮国内において「日本文人の表象」として機能したと思われる。十八世紀後半以降から十九世紀前半における次世代の朝鮮知識人による海外交流の新傾向、「海外墨縁」の契機ともなったことから評価できる。

第四章「十八世紀末葉における朝鮮通信使派遣の中断と朝鮮画壇の対応」では、一七六三―六四年朝鮮通信使から次の一八一一年朝鮮通信使までの朝鮮通信使派遣の中断期に現れた日韓絵画交流の新たな局面について述べる。特に、朝鮮通信使という朝鮮画の直接流入のルートが閉ざされた十八世紀後半以降、日本国内で起こった一定の朝鮮画需要に対し、朝鮮画壇において「対日交易用絵画」という新しい作品群が登場することに注目する。一七四八年朝鮮通信使の随行画員・李聖麟の孫で、中央(ソウル)の画員だった李寿民(一七八三―一八三九)筆「松鷹図」(旧小倉コレクション・東京国立博物館蔵)を対日交易用鷹図のプロトタイプとして提示し、類似の作品と比較する。この新たな試みによって、朝鮮の中央画壇から発信された対日交易用絵画のスタイルが、朝鮮王朝時代後期において対日関係の中心地だった東萊倭館一帯の画家たちに規範として受け入れられ、変容される様子を窺うことができる。

第五章「一八一一年朝鮮通信使と随行画員・李義養筆『倣谷文晁山水図』」では、一八一一年朝鮮通信使の随行画員・李義養(一七六八―?)が日本画家・谷文晁(一七六三―一八四〇)の絵に倣ってほぼ同じ図柄と法量で制作した、釜山博物館蔵「山水図」(一八一一年頃、旧辛基秀コレクション)と泉屋博古館蔵「夏景山水図」(一八一八年、一八二五年近世住友家が入手)について述べる。これら二点は、前近代の韓国の画家が同時代の日本の画家の絵を倣古作の対象にしたことが明記されている唯一の作例として注目される。そこで、まず、一八一一年朝鮮通信使が前回の一七六三―六四年朝鮮通信使由来の新しい文化交流の傾向を継承していたことを確認する。その上で、釜山博物館蔵「山水図」と酷似する谷文晁『画学斎図藁』(一八一二年頃成立、田原市博物館蔵)所収の控の存在を報告し、釜山博物館蔵「山水図」が朝鮮文士たちの文晁画への共感を背景に、原図に従う手法で描かれた作品であることを指摘する。次に、泉屋博古館蔵「夏景山水図」の日本伝来において対馬藩の人物が果たした役割を強調すると同時に、対馬藩まで派遣された外交使節である問慰行とのかかわりの可能性を示す。近世日韓絵画交流史における李義養筆「倣谷文晁山水図」二点の意義をより明らかにすることによって、十九世紀前半が十八世紀後半を継いだ近世日韓絵画関係史の成熟期と見なして遜色ない時期であることを主張する。

第六章「十八世紀後半―十九世紀における東萊画壇の絵画活動」では、第四章に続き、対日交易用絵画の展開について述べ、特に東萊画壇で描かれた対日交易用絵画、すなわち「倭館輸出画」に新たな光を当てる。近世最後の朝鮮通信使が派遣された一八一一年以降、朝鮮通信使の断絶期が訪れ、日韓絵画交流の中心地が東萊倭館に移るようになる。この時期、倭館一帯を中心に日本人向けの絵を制作する一群の画家たちが現れたと推測される。だが、彼らの絵画活動については、未だ不明な点が多い。東萊画壇の成立をめぐる様々な可能性を提示しながら、倭館輸出画の主要画題である虎図と鷹図の現存作品に見られる特徴を分析する。筆者が二〇一〇年に提示した対日交易用絵画の概念と関連する作品を改めて検討することによって、朝鮮王朝時代後期の地方画壇を代表する東萊画壇の絵画活動の様相をより明らかにする。

第七章「十八・十九世紀の日韓における絵画認識の変化」では、近世の日韓における絵画認識の問題に着目し、造形の変化には認識の変化が伴うという観念をもとに、二つの試みを行う。第一節では、三星美術館リウム(Leeum)蔵の伝金弘道(一七四五―一八〇六?)筆「金鶏図屏風」と類似の作品、及び関連する記録を分析し、日本の金屏風を模写したといわれている金弘道筆金鶏図屏の図様が、朝鮮国内で受容・変容される様子を窺う。十九世紀以降の朝鮮画壇で制作された彩色画と日本絵画のかかわりを究明する一つの手掛かりになることが期待される。第二節では、江戸時代に書かれた朝鮮書画関連の記録、例えば、日本南画の大成者・池大雅(一七二三―七六)が一七六三―六四年朝鮮通信使の随行画員・金有声(一七二五―?)に、中国の筆法に基づいた富士山図の描き方を問うために書いたとされる書簡や、江戸時代における朝鮮書画情報の集大成ともいえる『(増訂)古画備考五十・五十一 高麗朝鮮書画伝並印譜・付琉球安南上・下』(一八四五年起筆)の記録などを取り上げ、再考する。日本南画と朝鮮南宗画の関係を探るために、先決すべき作業であると判断される。

本論文は、朝鮮通信使と東萊倭館の絵画活動の両方に注目すること、日韓両国の関連資料を合わせて用いることによって、近世日韓絵画交流史全体の実相により近付くことを目標とする。既成の研究において近世日韓関係の衰退期(解体期)とされた十八世紀以降の時期を絵画交流の成熟期と見なし、十八世紀後半から十九世紀前半における日韓絵画交流の諸様相を改めて分析・考察する。その一連の作業を通じて、近世日韓絵画交流史の研究範囲を広げると同時に、日韓両国の絵画史における近世日韓絵画交流の意義をより明らかにすることに寄与できれば幸いである。今後の研究において、さらに補足してゆきたい。