沖縄のなかの近代日本 ―「地方」としての政治論理―

山本 ちひろ

沖縄は明治国家の「地方」としていかなる政治を経験したのか。本論はこのような問題意識のもと、沖縄における政治秩序の受容と彼らの交渉論理に注目することで、これまでとかく断絶的に叙述されがちであった沖縄近代史に対し通時的視座を構築することを目的とした。具体的には沖縄近代史に明治国家の政治秩序における「地方」という補助線を引くことによって、制度の理念や政治のプロセスと対照しつつ、複合的視点から沖縄の政治の言葉を検証し、彼らの論理の変遷・転換を跡づけた点に特徴がある。加えて、このように明治国家のもとで沖縄が経験した政治を彼らの言葉に即して考察しておくことは、戦後沖縄の政治空間における人びとの反応を考える意味でも有益であろう。すなわち本論は、近代沖縄における「地方」としての政治論理の分析を通じて、沖縄の近現代史を旧来の政治秩序と新たな政治秩序との対抗・相克の歴史として叙述する試みである。

本論は三部よりなる。第Ⅰ部、第Ⅱ部は沖縄が明治国家の「地方」として、それぞれ地方自治と議会制度下の請願を題材に、どのような政治交渉を行っていたのかを論じた。すなわち、第Ⅰ部では沖縄が他府県同様の自治を運営する際に桎梏となっていた財政問題について、それが大正末期に生じた政治論理の転換によって霧消したことを明らかにした。第Ⅱ部では議会制度下での請願という政治行為に注目し、他と同じ「地方」となったがゆえに、沖縄は「地方」のなかでの特異性を模索することを要請され、その政治交渉の過程で論理動員されたものは、地域社会の歴史や現状とは距離のあるものでもあったことを指摘した。第Ⅲ部では第Ⅰ部、第Ⅱ部での考察を踏まえて、終戦直後の沖縄の帰属論議のなかで戦前の政治秩序の本質がいかに総括されるのかを、日本復帰論者の主張をもとに分析した。

 

以下はその概要である。

第Ⅰ部「財政にみる沖縄の論理」は、近代沖縄の地方自治について、従来論述されてきた権利の面からではなく、地方財政の観点から彼らの抱えていた課題を照射し、それが霧消して新たな自治のかたちが成立するまでの政治過程を跡づけた。

第一章「明治末沖縄の財政構造の変容と地方税負担」では、まず1908年の沖縄県及島嶼町村制および1909年の県制施行によって、沖縄に県会・町村会が設置され、かつ地方費が原則として人びとの負担に移行したことを確認し、そのうえで以後の財政を主に県費について分析した。県制施行後の県財政は国庫支弁時代には抑制されていた財政需要の顕在化や県として行うべき土木、勧業、教育などの諸事業の要請によって、他府県をしのぐ勢いで膨張した。それにともない人びとの地方税負担も急増し、早くも1911年には負担力を超えた負荷が県民にかかっているとの指摘がなされていた。また天災の襲来は離島において地方財政の逼迫や毒のあるソテツをも食糧とせざるを得ない状況をもたらした。けれども県民は地方制度を他と同一のものとし、さらなる権利の伸長を得るために、過重な地方費負担を政治的に解決しようとすることには抑制的であった。

第二章「県費補給金の位相」では、1909年の県制施行と同時に国庫から沖縄県に支出された県費補給金について、その性格および県内での受け止め方について論じた。府県制は、府県の財務に関して財源を府県税その他の府県の収入に求めることを規定していたが、県費補給金とは沖縄県が地方費の全額を負担できるまでの暫定的措置として政府が例外的に設定したものであった。すなわち第24議会における床次地方局長の発言によれば、従来の国庫支弁の地方費額約30万円を見当に、国庫が沖縄県の地方費を向こう10年間に限り年額20万円支給するとしたものであった。だが、沖縄県は県制施行後の地方歳出の急激な膨張に対して、県費補給金を返上するどころか、むしろ財政運営に必須のものとして組み込んでいかざるをえなかった。とはいえ県民のあいだには、県費補給金はあくまで府県制の理念に悖る特殊な措置であり、いずれは停止されるべきものであるとの認識が確かにあった。

第三章「地方自治をめぐる政治論理の転回」では、前章までに論じた地方自治をめぐる権利と義務の緊張関係がその後いかに転回するのかを明らかにした。明治末以降の沖縄の相対的に過重な地方税負担を政治的に顕在化させたのは、1925年1月の衆議院沖縄第二区補欠選挙とその後の政治過程であった。政友本党と憲政会の一騎打ちとなった同選挙では、双方が幹部や代議士を送り込み、沖縄で未曾有の選挙戦を演じた。結果は政友本党が勝利したものの、両党は第50議会にともに「沖縄救済」に関する建議案を提出し、沖縄に政治的配慮が必要であることを主張した。その結果、沖縄県は翌年度以降県費補給金の増額および産業助成費の支出を受けるに至った。この政治過程において、沖縄は「特殊」であるから政治的配慮を要するのではなく、「困窮」しているから政治が手を差し伸べて「同一水平線上」に引き上げられるべきであるとの立場を確保された。ここにおいて沖縄は政治的権利を制限されることなく、さらなる財政支援を受けることが可能となる論理を獲得したのである。

 

第Ⅱ部「請願にみる沖縄の論理」は、沖縄より1920年代後半から1930年代前半にかけて帝国議会へ提出された高等水産学校設置請願を対象に、請願者が他の「地方」との相対性のなかで、沖縄をいかに価値あるものと位置づけ、有効な政治の言葉を獲得してゆくのかを分析した。

第四章「高等水産学校設置請願の論理」では、請願の目的およびそれを要求する論理の変遷を分析した。同請願の主唱者は沖縄県立師範学校の同窓会であり、彼らは全国各地に官立学校の設立されていく状況を横目にみながら、沖縄にも官立学校の設置されることを目的に第50、59、64、65議会に請願を重ねて提出した。官立学校のなかでも高等水産学校の設置を要望したのは、「環海」の地形に沖縄の特異性を見出したからであった。この「環海」の地形という点を論拠に、彼らは第50議会では沖縄が台湾・南洋漁場に近接している点を強調し、第59議会では前議会で可決された「水産国策樹立の建議案」の文脈にのせて主張をおこなうなど、そのときどきの政治の言葉にひきつけながら論理を練っていった。戦時期に入り、国家が工業教育を強化する方針をとると、請願者たちはその要求内容を高等工業学校に転化させるなど、目的を達成するために新たな政治の言葉を模索していった。

第五章「政治論理の内と外」では、前章で考察した請願の論理を沖縄の漁業と水産教育の歴史に位置づけて分析した。沖縄において漁業は、明治期以降に広く普及した後発産業であった。水産学校も同時期に設置されたものの社会はその意義をなかなか認めず、同校はしばしば廃校の危機に立たされていた。のみならず請願の提出された1920年代後半以降は、沖縄近海の漁業は不況と不漁の影響により不振状態にあった。「環海」の地形を根拠に水産業が有望であるとの主張が議会で披瀝されていたまさに同じころ、沖縄の海から漁業は衰退しつつあったのである。このような漁業と水産教育の現状を顧みずに政治言説としてのみ高等水産学校の設置を提唱する請願者に対しては、県立水産学校長から実現性を疑問視する声が出されていた。また1930年代後半以降、「南洋」の「沖縄漁民」は国内で広く注目を集めるようになるが、カツオ漁業を積極的に推進してきた社会にあって請願者たちは、それが東南アジアに進出していた追込網漁民を指すことにただちに感知することができなかった。政治状況をうつしとるように主張が組み立てられる一方で、このように地域固有の事情から政治論理に動員されない要素もあったのである。

 

第Ⅲ部「生き続ける思想と技術」は、個人の経験・思想を事例に、政治的主張においてあるいは社会経済において、沖縄の戦前と戦後を連続性あるものとして捉えるための試みである。

第六章「仲吉良光の希求した「日本」」では、戦後初期の沖縄の帰属論議において日本復帰を主張した仲吉良光(1887~1974)の思想を、戦前の彼の政治経験の上に捉えることを試みた。1910年代初頭より地元紙の県政記者として地方制度の特例撤廃を論じていた仲吉は、そこに「財政の独立」という難題があることを把握し、またその難題が政治論理の転換とともに霧消してゆく過程を理解していた。その彼にあって戦後沖縄の帰属は、政治の主体となることと経済の独立を果たすことの相関の地点から検討された。そしてその経済の独立の方策とは、戦前同様の地域間の水平的平等理念にもとづく国費の分配に依拠していた。仲吉が帰ろうと求めた「日本」とは、沖縄を他の府県と同格の「地方」として、同一の権利はさることながら、義務においても同一水平線上にのぼらしめることを可能とした政治秩序であった。

補論「宮城新昌と沖縄の「振興」「復興」」では、視点を産業技術に移して戦前と戦後の連続性を考察した。カキの養殖技術の専門家である宮城新昌(1884~1967)は、戦時中、沖縄に資源化学研究所を設立し松葉酒の製造などを行った。それは同時期に実行されていた国家による沖縄県への大規模財政支出(「沖縄県振興計画」)に対し、宮城が「沖縄の自然」と「沖縄県民自らの力」によって沖縄振興を成し遂げるべく考えた方法であった。1949年、宮城は在日本の沖縄人を結集し沖縄経済復興研究会を組織し、米国の経済援助を梃子とした沖縄経済の復興プランを構想した。GHQに近しいと推測される同会においては、復興計画の策定にもおのずと政治的制約があったであろうが、しかしそのなかでも自給自足できる原料を科学的に加工して特産品をつくるという、かつて宮城が提唱していた構想が確かに維持されていた。

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