近年、中国各地では戦国~秦漢期の出土文字資料が陸続と発見されている。その中でも重要な位置を占めているのが、簡牘という、竹や木の切片に文字を書き記したものである。「日書」と呼ばれる数術関係の資料も、そうした簡牘の一つである。

「日書」は、択日を中心とするさまざまな占いの方法が集められ、雑多な形式で寄せ書きされた書籍であり、現在に至るまで中華圏を中心に幅広く用いられている選択通書にも似た体裁を持つ。このように、「日書」はきわめて実用的かつ通俗的な内容であるため、伝世文献として現在に残っていないのはもちろん、数術書も多く収録している『漢書』芸文志にも、「日書」のようなスタイルの書籍は収められていない。だが、「日書」が人々の日常生活における吉凶や禁忌を占ったものであるとすれば、従来ほとんど知ることのできなかった当時の人々の暮らしに迫ることのできる貴重な資料となる。

 「日書」は、伝世文献中に見える「日者」と呼ばれる占術家に関わる書籍であろうと見なされているが、それがどのようにして「日書」を副葬している墓の主人の手に渡るのか、これまではっきりとした説明がされてこなかった。また、目下のところ「日書」の出土地は旧楚地域に偏っており、時代が下るにつれて全国に広がっていく傾向がある。このような状況を踏まえて、「日書」は戦国期の楚で生まれ、秦の統一を経て漢代には全国へ拡大していったとする説がある。しかし、本当にそのように考えられるのだろうか。そもそも各「日書」は戦国期の楚のもの、秦の故地出土のもの、秦に占領された楚地のもの、漢代のものなど、さまざまな時代・地域のものが発見されており、それらを全て楚から伝播したものとして考えられるかどうかは疑問である。まずはそれぞれの時代背景や地域性に即した分析がなされるべきであろう。

本論文では、以上のような問題意識に基づき、戦国~秦漢期の代表的な「日書」を取り上げて、その内容を個別に分析することによって、「日書」がそれぞれの時代・地域においてどのように受け入れられていたのか、当時の社会でどのような役割を果たしていたかを考察するものである。

まず第1~3章においては、「日書」の伝播の問題について考える。第1章では、放馬灘秦簡『日書』の基礎的な性格を論じる。先述のように、「日書」の出土地は旧楚地に偏るが、放馬灘秦簡『日書』は数少ない秦の故地出土の「日書」であり、秦地における「日書」の実態を伝えるという点で貴重な資料である。この資料は一般的に戦国秦の抄本とみなされているが、その中に見られる「罪」・「黔首」などの字句は秦の統一後に改められたものであると考えられるため、秦代に抄写されたとしなければならない。また、当該資料は秦の「日書」であるにも関わらず六国の文字遣いも確認されることから、少なくともその一部は六国からもたらされたと考えられる。これらは、「日書」の流通の複雑さを窺わせるとともに、「日書」が時代・地域に即した内容に書き換えられつつ受容されていたことを物語る。

第2章では、放馬灘秦簡『日書』・睡虎地秦簡『日書』・孔家坡漢簡『日書』などに見える「盗者」篇という盗人の捕縛に関する占いに注目し、その相互比較を通じて、この占いが時代・地域を越えてどのように流通していたかを論じる。本章では、「盗者」篇が三晋など中原地域に由来し、それが秦に伝わった後、さらに秦の占領下の旧楚地にももたらされたこと、旧楚地では当地の十二禽に合わせて内容を換骨奪胎され、それが漢代に継承されていくことを推測した。前章で考察したことも合わせると、「日書」は楚を起源とし、秦の統一を経てそれが全国へ広まったと考えられるかは疑問であり、中原からの影響や、各地で同時並行的に編纂されるようになった可能性を考慮しなければならないだろう。

 第3章では、放馬灘秦簡『日書』の中から「丹」篇・「鐘律式占」・「地支行忌」篇を取り上げ、それぞれが三晋からもたらされた篇であることを論証し、前章の補足とする。また、「地支行忌」篇に関しては、九店楚簡『日書』にも類似の内容が見られるため、三晋の占法が秦・楚両方に伝播した可能性がある。すると、秦・楚を初めとする「日書」は、中原地域からもたらされた占法に接触することによって在地の宗教的職能者が刺激を受け、その占法を取り込み、時には独自にアレンジしつつ、土着の占法をも組み込むことで、内容が成熟していったと考えられる。

 さて、「日書」がこのように中原地域からの影響も受けつつ、秦や楚など各地で同時並行的にまとめられていったものだとしたら、その内容についても、それぞれの地域性を反映した差異がある可能性は想定できないだろうか。そこで第4章では、秦の故地出土の放馬灘秦簡『日書』を秦の「日書」、戦国楚の九店楚簡『日書』を楚の「日書」として設定した上で、それぞれの占辞において吉凶や禁忌が問題とされている具体的行為を分析・比較した。その結果、秦の「日書」は下級官吏層を主な対象とし、県以下のレベルを問題としているのに対し、楚の「日書」は封君や有力貴族などを対象とし、国家レベルの事柄を主に問題にしており、そもそも対象として想定している層が異なっていたことが判明した。「日書」は、その通俗的な内容や、主に下級官吏などの墓葬から多く見つかっていることから、先行研究では「民間に流通していた中下層の人々のための書籍」とされることが多いが、少なくとも楚の「日書」については、これは当てはまらないことになる。ではなぜ秦と楚の「日書」にはこのような違いが生じたのだろうか。

 まずは楚の「日書」について論じる。楚の「日書」が封君や有力貴族などを対象としているのは、楚の国家制度や社会のあり方を反映しているのではないかという予想が立てられる。そこで第5章では、春秋期に遡って、楚と服属する小国の関係を通じて、楚が国内外に対してどのような秩序を構築していたかを検討する。現在の河南省南陽付近に位置した申国は、春秋前期に楚に滅ぼされ県とされたことが『左傳』に記されるが、新出資料を手掛かりにすると、春秋中期頃に復国されていたらしい。楚は申の公室を復活させて国人層を懐柔し、その軍事力を利用していたが、その一方で申県を併置することで一定の牽制もしていた。このような諸侯と県を併置するシステムは、戦国期の封君と県の併置関係に受け継がれている。この封君や世族などを対象としていることから、楚の「日書」は春秋戦国交替期の社会の変化を受けて成立してきた可能性がある。

 第6章では、九店楚簡『日書』を所持していた九店56号墓の墓主について、同時に出土した第1~12号簡や副葬品をもとに、軍事に関わる下級官吏であったと推測した。ところがこれは第4章で考察した楚の「日書」の本来の対象者と合致していない。すると、楚では貴族層を対象とした内容の「日書」が普及した後、それが下級官吏層にも再利用されていたことになる。また九店楚簡『日書』には抽象的・簡潔な経文と、具体的・平易な説文が見られることから、占術家の専門的なテキスト(経文)が一般向けに解説された(説文)ことが読み取れるが、その契機としては戦国期における巫・祝・史などの集団の解体と、世族の官僚化により、彼らも「日書」のようなマニュアルをもとに自ら占いを行う必要性が増したことが指摘できる。

 これに対して秦ではどうだったのだろうか。第7章では、放馬灘秦簡『日書』中の各篇の構造・内容や同時に出土した副葬品を手掛かりに、秦の「日書」はもともと市で客を取る占術家が用いていたマニュアルが、徐々に一般の読者が自分で参照して利用できるような形に変化していったものであることを論じた。このような秦の「日書」のあり方は、秦に占領された旧六国の地にも受容され、それまで貴族層を主な対象とする「日書」が普及していた楚地にも、下級官吏や庶民のための「日書」という概念が持ち込まれた。第8章では、秦~前漢前期の旧楚地の「日書」は、占術家が下級官吏層などのニーズに合わせて内容に少しずつ手を加えながら、質日などとセットにして定期的に配布していたことを明らかにした。これらの「日書」は、人々が日常生活において参照するばかりでなく、当時の県以下の地方行政では、職務遂行に「日書」を活用することを事実上黙認しており、「日書」は官吏にとって非公式ながら準教科書的な存在となっていた。また「日書」所有者の官吏や経済活動により富を蓄えた商人などは、自らが参照するためだけでなく、自分では「日書」を操れない人々をも占断することによって郷里社会の名望を集め、さらに占術家とつながりを結んで広域ネットワークを築くことに成功した。地方社会で下級官吏層や経済活動に従事する者が有力者となっていくのには、「日書」をうまく利用したという側面もあった。

 「日書」は一般的に民間の秩序を反映するものと言われているが、楚の「日書」は貴族層を主な対象としていたものであったし、秦・漢において用いられた「日書」は、地方行政とも密接な関わりを持っていた。秦の「日書」が県以下のレベルを対象としていたのは、一つには経済的繁栄を背景に都市の独立性が高かった三晋の影響を受けていることが挙げられるが、もう一つには秦の官吏が地方行政において「日書」を積極的に利用していることとも関係があるだろう。また「日書」は地方社会において名望を集め、広域ネットワークを築くためのツールとしても機能した。後漢期には「日書」を副葬することがなくなっていくが、「日書」自体が消滅したわけではなく、儒教の浸透や学校の設置、選挙制度の開始などにより、「日書」によって郷里の名望を集めるような価値観が失われていったことの現われではないかと思われる。