本論文では、中華人民共和国成立初期、即ち1949年から1950年代、大躍進前夜までの河北省における農村社会の変容について考察した。

 近年、中国の農村については三農問題や都市・農村間の格差問題などが多く報告されているが、土地の集団所有や村の政権の在り方など、1950年代に作られた体制がこれらの問題の一つの要因だという指摘がある。そのためこの時期は現在の中国及び中国農村を考える上で非常に重要な時期である。本論文ではこのような問題関心に基づき、檔案などの未刊行史料や地方新聞、筆者自身によるフィールドワークの聞き取り記録などを利用して、1950年代の中共の農村政策について検討した。またそれが農村社会と如何なる関係にあったかを考察し、1950年代の社会変容を歴史的に位置づけている。

 本論文は第1部と第2部に分かれ、第1~3章が第1部、第4~8章が第2部に相当する。第1部では議論の前提として、分析対象である華北・河北地域の状況と中国共産党の農村政策について整理した上で、1950年代における、基層社会と上級政府の関係及び意思疎通の状況について検討を行った。まず1章では華北及び河北省について地域の概要を示し、中国共産党の農村政策について概略を述べた。

その上で、第2章では中国共産党による成人教育と、中国共産党河北省委員会の機関紙『河北日報』を通じた宣伝工作の検討を行った。これらの宣伝工作、特に機関紙は、これまでの多くの研究で不振が強調され、その理由として農村における識字率の低さが挙げられてきた。本章では当時の識字率を検討し、識字率は主要な原因ではないと位置づけ、その上で社会の組織性に要因を求めた。即ち、中華人民共和国初期の段階にあって基層社会は十分組織されておらず、そのため教育や機関紙の普及は難しかったが、農業集団化を経て社会の組織化が進み、成人教育や機関紙の普及は進み、中共の政策執行においても一定の役割を果たすことになった。

しかし、それら宣伝手段の普及が必ずしも宣伝効果の増大につながる訳ではない。そこで、機関紙に焦点を絞って、機関紙の性格や内容そのものについて検討を行ったのが第3章である。多くの場合中国における党機関紙は「党の喉と舌」とも言われ、党の意向を忠実に伝えるものとして理解されてきた。しかしこれまでの研究の多くは宣伝の普及や機関紙の役割など、外面的な分析が中心であり、機関紙の内容そのものについての研究は不十分だった。本章では『河北日報』の性格について検討を行い、1950年代の『河北日報』は必ずしも中国共産党の望む宣伝などの任務を担っていた訳ではなく、また下から上へ情報収集を行う通訊員制度にも問題が存在していたことを明らかにした。そのため本論文で対象とする中華人民共和国成立から1958年という時期を通じて、中央・省レベルと基層レベルとの間には、上下間の不十分な意思疎通に基づく齟齬が存在していたと言える。

このような前提の下に、1950年代の共産党の農業政策と社会変化を論じたのが第2部である。第4章では土地改革から農業集団化までの農村における階級政策について論じ、1960年代の四清運動時期までの展望を行った。この時期共産党は、土地改革などを通じて「自らの側」である貧農や雇農と、「自らの敵」である地主や富農を分け、前者を中心とした「自らの組織」を村内に作り出し、彼らに土地改革や村政を担わせることを目指していた。このような目標は少なくとも一部の村では達成できたと思われるが、他方で地主や富農が旧来の影響力を維持していたところもあった。この後、農業集団化を経て地主・富農の影響力は相対的に低下したが、これは中共の期待する形で階級政策が受け入れられた訳ではなく、あくまで農民が理解できた範囲内のものであった。また四清運動や文化大革命などの一部の時期を除いては、村落において地主・富農とその他の階級間の緊張も限定的だった。本論文で対象とする時期を通じて、中共の階級政策が基層社会で機能することは難しく、階級意識とは農村において異質なものであり続けたのだと言える。

続く第5章では土地改革から農業集団化時期までの村落における村意識について考察した。そこで導き出されたのは一定の村の土地意識や村民意識、また村としての結び付きが存在していたという社会像である。この前提の下で、それらが共産党の農村政策の中で如何に作用したかを考察した。そこでは土地改革などにおいて村の土地という意識が見え隠れしていたし、本村人と外村人という意識は土地改革の中で強化される点も確認することができた。

第6章では互助組・初級農業生産合作社の組織過程を考察し、特に労働力の等価交換・相互利益及び余剰労働力の問題と、互助における副業について分析をした。これらはどれも、旧来の自発的で季節性のある互助行為から、長期にわたって持続する通年の互助組に移行する上での重要な要素である。中共は通年の互助組、或いは農業生産合作社の組織を目指しており、相互利益と副業の普及は重要な課題であった。しかし農民は旧来の、自らの「許容範囲内」での互助を行っており、結局のところ労働点数のみで分配が行われるようになる、高級農業生産合作社の時期までこの問題は続いていた。また副業は、最終的には普及したものの、農民は集団の副業に必ずしも積極的でなく、また時に農民が農業より副業を重視してしまう、行き過ぎなどの問題も見られていた。

第7章では高級農業生産合作社の組織と、一旦の解体までを考察する。高級合作社は初級合作社の後、1955年頃より組織化が始まった。両者の違いは内容面のものも多いが、規模の面での違いも大きい。即ち、初級合作社は大きくても1村1社程度の規模が普通だったが、高級合作社は数村1社、1郷1社、或いは数郷1社というものもあった。これは規模だけで言えば、人民公社に匹敵するものである。そのため高級合作社が組織されていく過程で、第5章でも見た各村の村としての結び付きが強化される一方で、社内各村の対立も強まった。結果として高級合作社は維持が難しくなり、人民公社前に、多くのところで1村1社規模への分社が行われることとなった。

最後に第8章では、朝鮮戦争時期の基層社会における軍事動員について検討を行った。朝鮮戦争については国際関係や中国の参戦過程など、多くの研究があるが、基層社会における動員についての研究は不十分であった。社会に対する働きかけが如何に行われ、社会の側が如何に応えたのか、考察する必要があるだろう。共産党は、国民党時期の徴兵に比して、輿論形成に基づく、個人ではなく拡兵委員会による徴兵を目指しており、そのために多くの宣伝や教育を行ってきた。しかしこれは機能することが難しく、結局のところ、村長など個人の独断で、「悪い階級」のものを強制的に徴兵する例が多く見られていた。

これらの考察の上で導き出した本論文の結論は以下の通りである。1950年代の河北省の農村において、地主や富農など旧来の有力者層は影響力を維持し、旧来の村落秩序も維持されていたし、村としての結び付きはむしろ強化される側面も存在していた。これら旧来の秩序に対して共産党は改善を試みたが、1950年代を通じて大きな変化はあまりなかったと言える。

他方、相互利益の問題は高級合作社の成立とともに問題自体が消滅したし、副業も最終的には、行き過ぎが生じるほど普及した。そのため、1950年代において、互助合作の障害となっていた要素は一応の解決を見た。上述の通り改善されなかった村における結びつきや村同士の対立については、大躍進運動後の人民公社再編において、実質的な権力の所在が公社レベルから、村に相当する生産大隊レベルに移すという措置が、中共によって採られた。つまり村意識に関しては、社会の側を変化させるのではなく、社会の実態に即して人民公社の方を変化させたのである。同様に階級意識も、基層社会で十分に受け入れられることは難しかった。

その上で終章において、1950年代の歴史的位置づけについて、1958年から1980年代まで続いた人民公社体制が、これら1950年代の変化/不変化の上に成り立っていたと展望を示した。即ち、階級意識の在り方や、それに伴う村落秩序の変容が不十分だったこともあり、人民公社時期にも多くの問題は発生し、人民公社体制は決して安定していた訳ではなかった。とは言え、上に見た副業や相互利益など、人民公社の成立を阻害するような要因の多くは1950年代の変化の中で消滅していた。この結果、問題を有しながらも1980年代まで長期間にわたって維持された人民公社体制が作られていったのである。