『中観学派によるプドガラ(人格主体)説批判』

鄭 祥教

1.研究の目的と構成

初期仏教以来、無我説は仏教の中心的な思想として重要視されてきたが、同時にまた、業・修行・輪廻の主体および果報の享受者などを無我説とどのように両立させるのかについて、仏教内部で大きな問題を残した。     

B.C.3C頃に上座部から分裂したと見られる犢子部(Vātsīputrīya)、およびB.C.1C頃に犢子部から分派したと推定される正量部(Sāṃmitīya)などの部派によって代表されるプドガラ論者(Pudgalavādin)は、このような問題を「第五不可説法蔵」とも呼ばれる、「五蘊と同一あるいは別異などとは語りえない(avācya)プドガラ(人格主体)」説を導入することによって解決しようとした。

すなわち、プドガラが五蘊(心身の五つの構成要素)と同一であるなら、五蘊と同様にプドガラも断滅することになり、業・修行・輪廻の主体および果報の享受者などを想定しにくいという問題が生じる。他方また、プドガラが五蘊と別異であるとするなら、プドガラは不滅のアートマンと同じように、無我説と正面から衝突する問題が発生してしまう。それゆえ、彼らはEkapuggala-vagga, Bhārahārasuttaなどの経典を引用し、ブッダが説示した「自我」の意味には人格主体が存在することを主張し、その人格主体を「五蘊と同一あるいは別異などと語りえないプドガラ」であると宣言した。

一方、この「非即非離蘊」のプドガラという概念が、無我説を保持しながら人格主体を立てようとした工夫の産物であったとしても、仏教内部の他の諸部派はこのようなプドガラをアートマンの一種と見なして批判をしつづけた。そうした批判は、早くは『論事』、『識身足論』などにも見られ、初期や中期の中観派の諸文献から、さらには後期中観派の『真理綱要』や『入菩提行論細疏』などに至るまで継続された。しかしながら、このような批判の痕跡が多くの仏教文献に残されているという事実は、それほど長いあいだプドガラ論者がインドで存続し、影響力を保持していたことを示す証左でもあろう。実際、玄奘の『大唐西域記』(646年編纂)によると、プドガラ論者達の規模は、7Cのインド小乗仏教全体のおよそ半分に当たると推定されている。

ところが、プドガラ説を主張したとされる諸部派の文献はほとんど残されていないため、その教理の全貌を描くことはできず、プドガラ説を批判した諸文献を通して、プドガラ説の概要は断片的に知られている。それゆえ、その批判の内容には共通点が見られる反面、文献によってかなり異なる様相を示すこともある。このような事情をふまえ、本論文は『中論』およびその注釈書、『入中論』、Tattvasaṃgraha(TS)・Tattvasaṃgrahapañjikā(TSP)など、インド中観学派の諸文献を中心にプドガラ説批判を分析し、検証することを目ざした。このような研究目的にしたがい、本論文の[2.本論]は、[2.1『中論』およびその注釈書]、[2.2-2.4『入中論』]、[2.5 Tattvasaṃgraha(TS)・Tattvasaṃgrahapañjikā(TSP)]によって構成される。

 

2.『中論』およびその注釈書におけるプドガラ説批判

まず、2.1『中論』およびその注釈書におけるプドガラ説批判に関しては、『中論』自体は批判対象となる部派を特定していないため、『中論』注釈書を中心にプドガラ説批判を検討した。

その中で『青目注』は、『中論』第10章第16偈において誤った「自我論」を主張する部派として犢子部に言及するが、それ以外のプドガラ説に関する情報は伝えていない。一方また、『中論』第9章の関連箇所をプドガラ説として注釈したのは『般若灯論』からであると考えられる。そして『般若灯論』が犢子部説として想定した第7章および第9章の該当箇所はPrasannapadāでも正量部説として注釈されたが、そこでもプドガラ論者の教理は詳細に論じられてはいない。このため、はたして『中論』の注釈家たちのプドガラ説に関する記述に信憑性があるのかという疑問は残される。というのも、第9章の「見る感官などより先なる主体」は必然的に「五蘊と別異」の存在であることが想定されるが、そうであるなら、よく知られる「非即非離蘊」、すなわち第五不可説法蔵としてのプドガラの存在様態に関する規定と矛盾が生じてしまうからである。しかしながら、この点に関して、『中観心論』とその注釈Tarkajvālā の第3章・第90-第93偈は、「五蘊と別異」のプドガラと「非即非離蘊」としてのプドガラ説を併せて伝えている。また『入中論』第6章第126偈は、「蘊即我」「心即我」のプドガラ説を正量部説であるとし、他方、同章第146偈は「非即非離蘊」のプドガラ説を正量部説であると示した。この問題について、既存の一部の研究でも、Tarkajvālā のプドガラ説に関して、犢子部内部に二つの見解が存在したとみる解釈があり、また『入中論』の見解に関しては、Candrakīrtiの単純な誤解やプドガラ説に対する意図的な歪曲であるとする解釈もあったが、注目されなかった。しかし、単純な誤解や意図的な歪曲であるとみる解釈には、「非即非離蘊」のプドガラ説以外を認めず、文献にも明確に残されている「蘊と同一」「蘊と別異」のプドガラ説をすべて無意味なものとする問題があった。本論文はこの問題を解明するために、考察を加えた。

まずAvalokitavrataは『般若灯論複注』第12章において、プドガラ説を唱えた七部派に言及しながら、その中の一部は五蘊と同一のプドガラを、また一部は五蘊と異なるプドガラを主張したと注釈した。さらに、18世紀に活躍したゲルク派の学僧lCang skya Rol pa’i rdo rjeの『宗義設定』もまた、そのようなAvalokitavrataのプドガラ論者に対する記述を、プドガラ論者内部の部派の理解を示すものとして引用していることも指摘した。

一方、『般若灯論』はまた、第9章の「先なる存在」を犢子部説として規定する際、推論(anumāna) を重んじる犢子部とともに、Bhartṛhari(5C頃)のVākhyapadīyaを引用したうえで、推論よりもアーガマを重んじる犢子部の学説を紹介している。また、『般若灯論複注』はこの「先なる存在」としてのプドガラを「遍在するアートマン」として注釈しており、このプドガラ説はサーンキヤ学説ともある程度の類似性が見られる。ただし、「蘊と同一」や「蘊と別異」のプドガラ説が成立するとすれば、「非即非離蘊」のプドガラ説とは両立しえないという問題が発生する。  

それゆえ本章では、「非即非離蘊」のみでプドガラ説を統一的に理解しようとしてきた従来の研究とは異なる観点から、「非即非離蘊」以外のプドガラ説の教理も独立して存在していた可能性を詳論した。

 

3.『入中論』におけるプドガラ説批判

 『入中論』第6章のプドガラ説批判は、第126偈-第145偈における「蘊即我」「心即我」としてのプドガラ説に対する批判と、第146偈-第157偈の「非即非離蘊」としてのプドガラ説に対する批判とに区分できる。「蘊即我」「心即我」は初期仏典においても批判されるアートマン(自我)説ともいえるため、Candrakīrtiもまた初期仏典を引用して批判する。他方、「非即非離蘊」のプドガラを批判するために、Candrakīrtiは他の文献には見られない、独自の「七通りの仕方による考察」を提示した。それゆえ、本章ではCandrakīrtiが引用する初期仏典の内容とともに、「七通りの仕方による考察」の理論を分析した。

 

4.『真理綱要』Tattvasaṃgraha(TS)・『真理綱要細疏』Tattvasaṃgrahapañjikā(TSP) におけるプドガラ説批判

TS・TSPは第7章第6節“Vātsīputrīyaparikalpitātmaparīkṣā”(第336-349偈)においてプドガラ説を批判する。この箇所のテキストについては、その重要性に鑑みて、本論文は写本に基づいて新たに校訂テキストを作成し、テキストをめぐる諸問題を検討するとともに、その内容を分析考察した。

まず、TS・TSPの現存する二種類のサンスクリット写本であるJesalmerおよびPattan本に基づいてDiplomatic editionを作成した。これによって既存の二種類の校訂テキストであるGOS本・ BBS本と比較し、数十箇所の異読が存在することを確認した。本論文はこの新たな校訂テキストを付論として掲載し、より信頼度の高いテキストの提供を試みた。

一方、TS・TSPにおけるプドガラ説批判の特徴は、Dharmakīrtiの論理学を積極的に援用していることと、教証に関しては『倶舎論』「破我品」に従っていることである。つまり、経典に依拠してプドガラの存在を主張するプドガラ論者からの反論は、その内容については、先行研究が指摘するように「破我品」に見られるプドガラ論者の見解とほぼ同一といえる。そして、「五蘊と同一あるいは別異とは語りえない実在物」というプドガラの存在様態をめぐる議論では、TS・TSPはNyāyabinduに見られる「相互に排除して存在する特徴」(parasparaparihārasthitalakṣaṇa) という概念を援用した。すなわちTS・TSPは、「実在物」であるなら必ず「同一か別異」のいずれかとして規定されなければならないということを前提とした。さらにまた、「実在物」に対するDharmakīrtiの重要な定義である「効果的作用能力」(arthakriyāśakti)を採用した上で、「刹那的であること」(kṣaṇikatva)という帰結をもプドガラに適用した。これにより、同一あるいは別異などと語りえないプドガラは以上のような実在物としての概念規定に適さないことから(「遍充関係」の不成立)、TS・TSPはプドガラ説の論理的矛盾を指摘した。

一方また、TS・TSPと同様に後期中観学派の文献である『中観光明論』と『入菩薩行論細疏』におけるプドガラ説批判は、このようなDharmakīrtiの思想概念を適用したTS・TSPの議論に忠実に従っていることも併せて考察した。

 

5.付論

付論として、本論で使用した関連テキストとその訳注を掲載した。まず、本論の2.2-2.4に関連する『入中論注』と『入中論複注』の第6章・第126偈から第160偈までの注釈箇所について、そのチベット語訳テキストのCritical EditionをsDe dge, Co ne, Peking, dGa’ ldan, sNar thangの五版本に基づいて作成し、和訳とともに掲載した。

さらに、本論の2.5に関連するTS・TSPの第7章第6節第336偈から第349偈までの注釈箇所のテキストに関しては、現存する二種類のサンスクリット語写本であるJesalmerおよびPattan本のDiplomatic Editionを作成するとともに、これに基づいて、GOS本とBBS本の二種類のCritical Editionおよびチベット語訳を参照した上で、新たなCritical Edition を作成し提示した。

 

 

 

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