本研究の目的は,地域包括ケアシステムの進行する現代において,地域において支援を受けて生きるという営みがいかにして可能になっているのかを,筋萎縮性側索硬化症(Amyotrophic Lateral Sclerosis: ALS)という神経疾患の患者の療養を対象として検討することにある.とりわけ,患者を支援する介助者や家族が,患者に対する自身の立ち位置をいかに観測し,維持し,あるいは変革していくのかを問うことをその具体的な作業とする.

まず第1章では,本研究が位置づく社会的な背景が確認された.地域包括ケアシステムは疾病構造の変容にともなう必然的帰結であり,心身の衰えに折り合いをつけながら支援を受けて生きていくことは,現代のライフコースにおける普遍的な段階となりつつある.こうした地域での生活は70年代以降の障害者運動によって目指されたものでもあり,これを対象とした議論が本研究においても参照できることが述べられた.また,そうした障害者運動での理念を前提とせずに療養を成立させているALSを対照とすることによって,そうした理念の希薄化のなかでいかに生活を営んでいくかという課題に直面している障害者の自立生活をめぐる議論に対しても,本研究は示唆を投げ返しうることが示された.

これを受けて,本研究は障害者の生活をめぐる歴史や既存の議論の検討を通じて,具体的な問いを設定する作業に移った.まず,第2章では障害者運動の言説の歴史から,介助者を手足になぞらえる用語法とその含意の変遷を追った.その結果,当初は障害者と健常者(健全者)の非対称な関係への自覚を求めるためのスローガンだった「手足」の語が,運動の場面における口出しの禁止を意味するようになり,今度はそれが日常生活の場面にまで拡張して用いられるようになる,という推移をたどっていることが明らかとなった.このことは,障害者と介助者の関係は,一意に理想的なものが定まるものではなく,その文脈に応じて同じ比喩にも異なった意味が充填されることを示している.

こうした準備作業を踏まえて,第3章では障害者と介助者の関係をめぐる既存研究の検討がおこなわれた.そこでは,やはり介助者手足論が基底的な理念として提示されていた.一方で,介助者が手足に徹することによる問題も指摘されていた.すなわち,ある程度は自身で考えて介助者が動いた方が障害者にとっても快適であるはずだという主張である.さらに,こうした障害者の指示と介助者による実行という発想それ自体を相対化するものとして,介助者は障害者にとっての環境として,おのずからその決定を制限してしまうことも発見されていた.そのとき,介助者は,このことを自覚した実践をおこないうる存在として捉えなおされることになる.

こうした研究は,それぞれに障害者と介助者の関係のあり方を適切に切り取ったものである.しかし,そうした関係はある障害者や介助者にとって唯一不変のものではない.むしろ,それらは臨床において組み合わされ,また揺らぎ,混ざりあうものであることも報告されている.そうであるならば,その関係の組み合わせ方や,混ざり方,揺らぎが,いかなる相互行為のもとにおこなわれているのかが捉えられなくてはならないのであり,本研究はこの点を具体的な問いとして設定した.

第4章では,こうした問いを扱うに際しての対象と方法を検討した.本研究は神経難病であるALSという疾患の患者とその介助者,家族を対象とした.そこでは,ALSの症状の性質と,そこから求められる療養の体制や利用可能な制度が,本研究の問いに対して適切なものであることが述べられた.調査方法にはフィールドワークにもとづく観察とインタビューが採用され,実際におこなわれた調査の概要と調査協力者の属性が提示された.

第5章では,患者と介助者の関係について,とくに介助者手足論に基づく関係を基調としつつも,これが相対化されてある程度介助者が自身で考えて介助に臨むようになる様子をみた.そこでは,患者の介助に中長期的に携わる中で,生理的なリズムや人となりを知っていくことにより,ある程度予測して先回りした介助ができるようになることが示された.一方で,介助者は自身で判断して動けるような場合でも,家族を慮ってあえて指示を待つといった実践をもおこなっていた.このことから,介助者が手足として振る舞うことは,自身の考えを抑えて患者ないし障害者に従うことによってであると同時に,自身の思慮の結果としても現れうる事態であることが示された.

第6章では,自身が患者の決定に影響してしまう存在であることを介助者が自覚していく様子をみた.介助者は,とくに介助者同士の相互行為を通じて,自身らが患者の決定に不可避に影響してしまうことを知る.それが患者の決定を拘束することがないよう,介助者は自身の介助を改善していく.しかし,ほかの介助者が決定を拘束していることが観測された際には,それを必ずしも指摘できるわけではない.逆説的なことに,そうした介助者の采配にかかわることは患者が決めることであると考えられているからだ.

第7章では,家族が介助者をどのような存在として,その裏返しとして介助者ではない自身をどのような存在として捉えているのかという認識に注目した.その結果,家族と介助者を区別するに際し,介助者は指示に従うものであるという介助者手足論的な想定を,家族は説明に用いていることが指摘できた.自身の選択として介助にかかわっているという家族の観念は,こうした角度から理解することができるのである.

第8章では,こうした認識が介助の実践においてどのように家族を水路づけるのかを検討した.たしかに,家族が介助へと向かわせる制度的・規範的圧力は存在してしまっている.しかし,自身は患者の指示をそのままに聞く存在ではない,その点で介助者とは異なるという認識をもっている家族は,自身の意見を言ったり,患者を最優先しなかったりといった実践をおこなうことを可能としていた.また,そうした実践は患者の利益を犠牲に達成されているわけではなく,むしろ自身と患者双方の負担に配慮したものであった.

第9章では,以上の議論を俯瞰し,総合的な考察を加えた上で,その議論がどこまでの意義をもち,またどこからが今後の課題として残されているのかを明らかにした.

まず,本論文の理論的な含意は以下のようにまとめられる.介助者を対象とした議論からは,介助者手足論の流通は,手足たれという規範が望ましいから介助者がこれに従っているという単純な構図によるものではない,という知見が得られた.本研究がみた介助者は,その場において望ましい介助がどのようなものであるかを自身で考え,障害者の意図を汲んで言われずとも動いたり,あるいは障害者の決定を制限してしまう自身のあり方を内省して介助に臨んだりということが可能な存在である.そしてそうであるにもかかわらず,ときに自身の判断のもとで,手足とは異なるあり方を選ばないという実践をおこなっているのであった.介助者手足論は,重要な規範として参照されているけれども,それは無批判に遵守される金科玉条ではない.それに沿った実践がおこなわれているときさえ,それは介助者による検討の結果として採用されるものなのだ.

また,家族を対象とした議論からは,これまでとは異なる角度から介助者手足論の評価が可能となった.介助者手足論が,第一義的には障害者と介助者の関係を規定する規範であることは揺るがない.しかしながら,そうした規範が専門職倫理として浸透し,介助において第一に参照されるべきものとなることによって,それは障害者と介助者のみならず,家族によっても念頭に置かれる規範となっている.第7章と第8章でそれぞれみたように,それは家族が介助者ではなく家族であるという概念運用,またそれに基づいた実践を可能としている.介助者手足論のこうした効能は,これまでの議論が見てこなかった側面であるといえる.

一方で,本論文の実践的な含意は,障害者と介助者のあいだに生起する関係性を多様なものたらしめる介助者のあり方を提示した点にある.すなわち,多様な関係性の組み合わせは,障害者による高次の決定は担保されるべきであることを慎重に確認した上で,しかし,介助者が「冒険すること」によって達成されるものである.介助者手足論が重要だとした上で,しかし,そればかりでは障害者が面倒を感じる場合,また障害者の決定の前提となる環境自体の改変が必要と思われる場合に,介助者が自らの思考を実践に反映させることによって,関係の多様化は実現しうる.これらの知見は,現代の環境を所与として,障害者がいかに介助者を運用し,家族と関係を切り結ぶかという点にも一定の示唆をもつ.

ただし,本研究は以下の限界をもつ.まず,本研究が提案する介助者のあり方が実装されることによって,患者の家族による概念の運用がいかに変わるか,またさらにその概念によって実践がいかに変わるかという論点を本論文は扱いきれなかった.この往還は引き続き吟味されるべきだし,それによって本研究が提示した介助者のあり方の妥当性は批判的に検討されなければならない.また,ALSが「進行性」「疾患」であることに注目した研究も要請される.なぜなら,進行にともなう能力の喪失といかに向き合うかといった問題や,障害学において個人の治療を障害者自身が望む場合をいかに扱うかといった問題は,従来の障害学において見過ごされ,しかし今後重要性の増すと思われる論点であるからだ.