網膜における視覚情報の符号化

松本 彰弘

外界の視覚世界は、眼球の光学系を介し、網膜に投影される(網膜像)。外界の光信号は、視覚の感覚器官である網膜での処理を経て、脳へと伝送される。網膜像全体は、眼球運動によって絶えず揺動しており、視覚システムは、網膜像の揺動下にあって安定的な視知覚を形成するための処理機構を備えている。本研究は、網膜が、眼球運動に伴って揺動する網膜像をどのように処理し、脳へと情報を伝送しているのか、明らかにすることを目的とした。

第1章では、感覚・知覚に関する哲学的、科学的な議論についての歴史的展開を概観した。まず、感覚・知覚についての説明が、古代ギリシア世界から続く形而上学的な洞察から、神経組織における電気的現象(スパイク)としての生理学的記述へ遷移していく過程を概括した。次に、視覚の初期過程について概観した。現在では、視覚系では、視野を空間的に分節化し(“受容野”)、視覚特徴ごとに並列分散処理が行われるとされている。光を受容する網膜では、様々な神経細胞が精緻な層構造を形成し、多数の化学・電気シナプスを介して複雑な神経回路が構成されている。網膜の出力細胞である神経節細胞には、網膜内の処理経路や、発現する膜タンパク、細胞内分子の相違から、多数のタイプが存在する。各々の細胞タイプは、異なる視覚特徴を符号化し、並列的に情報を脳へと伝送する。最後に、神経節細胞からの投射を受ける脳の視覚システムについて概観した。様々な生理学的・心理物理学的研究は、眼球運動に伴う網膜像の揺動を処理する機構の存在を示している。しかし、それらの機構へ網膜からどのような信号(スパイク列)が伝送されているのか、明らかではない。視覚情報処理の起始点となる網膜での情報の符号化について、解明すべき問題点を提起した。

第2章では、実験方法について記述した。キンギョの眼球から剥離した網膜標本を用い、神経節細胞から多点電極による多細胞同時記録と、ガラス電極によるホールセル・クランプ記録を行った。視覚刺激として網膜標本に投写した広域動画像は、「固視微動→サッカード(急速眼球運動)」というキンギョの眼球運動を模しており、ランダムドットの背景刺激と標的が、網膜上で微動運動と急速運動を行った。また、本研究で用いた解析、統計について詳述した。

 第3章では、逆相関法によって神経節細胞の受容野を推定し、その時間特性に基づいて神経節細胞を6グループ(Fast-transient型, Medium-transient型, Slow-transient型, Fast-sustained型, Medium-sustained型, Slow-sustained型)に分類した。これらのグループ間では、光刺激に対する応答の時間特性や受容野サイズが異なっており、機能的に異なるタイプであると考えられる。暗黒背景上に提示した光刺激に対する神経節細胞の応答を解析した結果、各神経節細胞は、個々の受容野に入射した光情報を独立に処理していた。

第4章では、眼球運動を模した動画像を提示し(眼球運動様条件)、スパイク発火応答を解析した。眼球運動様条件では、固視微動様に微動運動する背景刺激が提示された後、標的とともに背景がサッカード様の急速運動を行った。急速運動時の応答を解析すると、Fast-transient(Ft)型細胞では、標的が逆相関法によって推定された受容野に到達する前に、高頻度のスパイク発火を生じた。一方、暗黒背景条件では、推定された受容野に標的が到達した後、発火を生じた。細胞グループごとに、眼球運動様条件と暗黒背景条件とで発火特性を比較すると、細胞グループ依存的に運動標的に対するスパイク発火の応答潜時や発火率が異なっていた。このような応答特性の修飾は、広域な背景刺激を必要とした。また、急速運動の前に提示した背景が静止していると、応答性の修飾は生じなかった。このようなFt型細胞に生じた応答潜時の短縮は、眼球運動様条件において、受容野が運動標的の側へと空間的に拡大したために、運動標的が受容野へより早く侵入したと考えられる。

第5章では、眼球運動様の揺動下に、神経節細胞群がどのように情報を伝送するのか検討した。相互相関解析を用い、スパイク列の相関性を定量した。その結果、眼球運動様条件において、急速運動時、隣接するFt型細胞群が同期的に発火していることがわかった。また、Ft型細胞と、近隣のMedium-sustained(Ms)型やSlow-sustained(Ss)型細胞間に、時間遅れを伴った相関性が形成されていた。したがって、眼球運動によって網膜像が揺動している状態では、網膜神経節細胞は、それぞれ独立に情報を伝送するのではなく、特定のグループが相関性を持ったクラスタ(相関性アセンブリ)を形成し、協同して情報を伝送していることがわかった。

第6章では、応答性の修飾について、生体の眼球運動との関連を検討した。眼球運動様条件における神経節細胞の受容野特性の変化や相関性の形成は、標的が網膜上の水平方向(尾側-吻側)に速い速度で動いた時に生じた。また、急速運動の前に、1秒以上、広域背景を微動させる必要があった。これらの特徴は、キンギョ眼球運動の特徴(1-2秒の固視微動の後、水平方向へのサッカードが生じる)によく対応していた。したがって、本研究で新たに見出された神経節細胞における受容野の動的な変化や応答性の修飾は、生体の眼球運動と関係することが強く示唆された。

第7章では、広域な微動背景が網膜の神経回路に与える影響を検討した。Linear-Nonlinear modelによって受容野の時空間特性を評価した結果、Ft型細胞とSs型細胞では、刺激の入力統合が効率化し、受容野の空間的拡大が生じていた。また、Ft型細胞、Ms型細胞、Ss型細胞ではスパイク発火の閾値が低下していた。したがって、網膜像全体が固視微動様に揺動すると、特定の神経節細胞において入出力特性が動的に変化し、効率的なスパイク発火に寄与すると考えられる。

第8章では、神経節細胞の応答性修飾に関与する経路を薬理学的に検討した。ギャップ結合を介する電気シナプス伝達とGABA作動性シナプス伝達が網膜内で側方向性の修飾に関与することが知られている。そこで、mefloquine(MFQ)とpicrotoxin(PTX)で各々のシナプス伝達を阻害した結果、応答性の修飾が消失した。キンギョ網膜では、電気シナプスで繋がったMb1型双極細胞群によってGABA作動性アマクリン細胞を介する側方向性経路が駆動されることが報告されており、本研究での現象を説明する可能性がある。

第9章では、微動背景下における神経節細胞へのシナプス入力について検討した。ホールセル・クランプ記録を行い、膜電位固定下でFt型細胞への興奮性シナプス入力と抑制性シナプス入力を解析した。その結果、広域背景の微動下では、静止背景時に生じる興奮性シナプス後電流(Excitatory postsynaptic current、EPSC)に加え、新たに、時間経過が速くて振幅の大きなEPSC(“sharp EPSC”)が発生した。sharp EPSCは、暗黒背景下で推定された受容野の周辺領域で生じ、空間的には網膜上の水平方向(尾側-吻側)に広がっていた。このような興奮性シナプス入力から、広域の微動背景下における発火特性の修飾や受容野の空間的拡大を説明することができる。一方、抑制性シナプス入力には変化が生じなかった。

第10章では、急速運動時における神経節細胞の応答性の修飾について検討した。運動刺激には、輝度変化に時空間的な相関構造が伴っており、静止刺激とは異なる処理が網膜で行われる可能性がある。そこで、広域の微動背景を提示した後、運動刺激の相関性を排除した刺激(無相関条件)と運動刺激(相関条件)を提示した。その結果、Ft型細胞は、無相関条件ではなく相関条件で、標的に対して高頻度発火と高い同期性を示した。また、相関条件では、sharp EPSCが生じていた。これは、急速運動する標的が引き起こす時空間的に連鎖した輝度変化が、神経節細胞へのEPSCの時間的重畳を引き起こしたためと考えられる。

 第11章では総合考察を行った。固視微動様の広域微動背景は、神経節細胞グループ特異的に受容野の時空間特性を変化させ、後続するサッカード様の急速運動時に効率的なスパイク発火応答を可能にした。特に、Ft型細胞群では、サッカード様に網膜像全体が急速運動するときには、受容野が空間的に拡大し、運動標的に対して高頻度の同期発火を生じることで、脳の視覚システムに対し、一過性の情景変化に関する情報を伝送するのに適していると考えられる。さらに、Ft型細胞、Ms型細胞、Ss型細胞が局所的に相関性アセンブリを形成し、協同して脳へ情報を伝送していた。このような相関性は、サッカード時に特有の時間情報として脳のシステムに利用される可能性がある。これらの応答性修飾は、電気シナプスとGABA作動性シナプスによって媒介されていた。本研究結果と従来の知見に基づき、広域な微動背景下に活性化したMb1型双極細胞の電気的連絡網が、GABA作動性アマクリン細胞を介する側方向性経路を駆動し、急速運動時に発火特性の修飾を生じさせるという回路モデルを提案した。今後、眼球運動様条件下での応答性修飾に関与する網膜内神経回路を同定すると共に、特徴的な網膜神経節細胞からの出力が脳の視覚システムでどのように利用され、視覚機能と関連するのかを明らかにする必要がある。

 

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