本論文は、戦国期の遣明船派遣の実態解明を目的としたものである。

 序章「研究史と課題」では、これまでの中世後期日本対外関係史研究の研究史を、日明関係史研究にかかわるものを中心に概観し、本論文の課題が導き出される過程を説明した。

第一部「経営者・派遣主体からみた戦国期遣明船」では、従来、細川氏と大内氏の抗争から大内氏の独占へという流れで語られてきた、当該期における遣明船の経営者・派遣主体の対立構図とその変遷について検討した。

 第一章「寧波の乱以前の遣明船と細川氏」では、これまでの研究で細川・大内両氏抗争時代とされてきた、応仁度船から寧波の乱を起こした大永度船までの各遣明船について、細川氏の動向を中心に分析し、細川氏対大内氏という構図の当否を検証した。その結果、応仁度船派遣時には、両者は対立関係にはなく協調関係にあったことや、文明九年度船・同十六年度船派遣時には、細川氏が経営を志向した徴証はなく、対立は見られなかったこと、これらの遣明船は抗争時代と一括するべきではないことを明らかにした。また、明応度船、永正度船、大永度船派遣時には対立が存在したことを確認したうえで、前二者の際は、抗争の焦点が、幕府が派遣を決定した一遣明船団内の、一隻単位の経営権の獲得にあったのに対し、大永度船では、それぞれが経営権の確保を達成し、別個の遣明船団を主体的に派遣できる状態となったうえで、相手方の派遣の妨害や、渡航後の待遇などをめぐって抗争するようになったという変化のあったことを指摘した。

 第二章「「堺渡唐船」考」では、従来、大内氏独占時代とされてきた、寧波の乱後の遣明船派遣の実像を明らかにするため、これまで正規の遣明船とは見なされていなかった、史料上に「堺渡唐船」と記される遣明船について、関係諸勢力の立場、搭乗者および派遣の形態や目的、歴史的位置づけの三点を究明した。まず、関係諸勢力については、細川氏と堺商人が主体的に派遣を推進し、本願寺や土佐一条氏が協力し、大内氏や畠山氏が派遣阻止を試みたことを明らかにした。次に、搭乗者および派遣の形態や目的については、忠叔昌恕や半井明英が乗り組む予定だったこと、従来の遣明船と同様に朝貢使節としての体裁を整えていたこと、派遣目的は、前回大永度船の朝貢品の献上や同船の遺留品の返却、収監されていた宋素卿の送還、新勘合および新金印の下賜などの要請だったことを明らかにした。それから、歴史的位置づけについては、寧波の乱後に足利義晴・細川高国が明側とおこなった交渉の延長上に「堺渡唐船」があることを解明し、同船の派遣が計画されるまでの、状況の推移を論じた。また、同船と大内氏の経営した天文八年度船のあいだでは、寧波の乱の際の遺留品の返却や新勘合の獲得などが争点だったことを指摘した。そして、以上を踏まえて、これまで大内氏独占時代とされてきた寧波の乱後にも、それ以前と同様、同氏と細川氏の抗争が継続していた点を明らかにした。

 第三章「種子島「新貢三大船」考」では、前章で検討した「堺渡唐船」と同様、これまで正規の遣明船として扱われてはいなかった、種子島を経由して渡航した「新貢三大船」について、船団構成と渡航時期、派遣主体を検討した。船団構成と渡航時期については、天文十三年に三隻で種子島を発った船団が、嵐に遭い、一号船は消息不明となったこと、二号船は同年のうちに寧波へ至り、翌年帰国したこと、三号船はいったん種子島へ引き返した後、同十五年にふたたび渡航したことを明らかにした。また、派遣主体については、三号船に関しては大友氏と判断した。二号船に関しては、これまで示されてきた大友氏や種子島氏とする見解は論拠が十分でない点と、近年新たに提示された、同船の前身が大内氏の準備していたものだとする説は首肯しがたい点を論証した。そのうえで、二号船搭乗者寿光に注目し、彼が南禅寺聴松院院主春芳寿光に比定されることを明らかにし、同院は細川氏ゆかりの塔頭であることや、第二章で検討した「堺渡唐船」が、天文五年~十一年頃に細川晴元と堺商人によって準備されていた事実とを勘案し、これまで別個のものと見なされてきた「堺渡唐船」が、「新貢三大船」の一号船と二号船にあたるとの結論に至った。そして、これをもとに、寧波の乱後における、細川氏・大友氏対大内氏という対立構図の存在を明らかにした。

 第四章「天文年間の遣明船における大内氏の優位と国内活動」では、遣明船にかかわる大内氏の国内活動に注目し、同氏が天文年間の遣明船派遣において築き上げた優位の国内的要因をさぐった。まず、大内義隆が、外交文書を京都で作成したことや、明皇帝からの回賜品を慣例通りに献上していたことから、彼に将軍足利義晴との関係を維持・尊重する意図のあったことを明らかにし、これが、弘治勘合の確保、競合勢力への妨害、他勢力への協力要請の仲介といった見返りのためであったことを論じた。次に、大内氏の派遣した遣明船の搭乗者に注目し、前代の遣明船の搭乗者やその縁者の登用に成功していたことを指摘した。また、対抗勢力である細川氏に近しい人物や、過去に同氏の派遣した遣明船に搭乗した者を、大内氏が自身の派遣した船の要職に起用した点も示した。そのうえで、こうした人材の取り込み・囲い込みは、他勢力の遣明船への人材供給を抑制しただけでなく、同氏の派遣した遣明船が、明側の受容を勝ち得る下地を形成していたと考えられることを示した。そして、これらが大内氏の優位を支えた国内的要因と推察されることを述べた。

 第二部「搭乗者からみた戦国期遣明船」では、第一部でおこなった、経営者・派遣主体に関する検討のみからでは明らかにしがたい、戦国期の遣明船に乗り組んだ多様な人々の実態を、個々の搭乗者の分析を通じて解明した。

 第一章「「山隣派」と遣明船」では、近年の研究において「山隣派」と呼称されている、大徳寺派・妙心寺派の禅僧・寺院と遣明船とのかかわりについて論じた。まず、大徳寺派については、基本的には同派に帰依する商人などを介した、間接的な関係にとどまっていた点を指摘した。また、これまでの研究では、同派僧と遣明船の接点として堺商人が注目されてきたが、通事なども同派僧と関係していた事実を新たに見出した。一方、妙心寺派については、同派禅僧が直接遣明船に搭乗した事例が複数確認されることを明らかにし、そのうち十五世紀後半の事例は、同派に帰依した細川氏の遣明船経営と強くかかわっていたことを論じた。それから、十六世紀には妙心寺派僧が大内氏の経営した天文十六年度船に搭乗したが、それは同船正使策彦周良が同派僧と親しかったために、機会を得た可能性が高いことを明らかにした。そして、以上を踏まえて、「山隣派」の禅僧は要職に任じられた形跡こそないが、遣明船とは少なからず関係していたことや、一概に「山隣派」と言っても、大徳寺派と妙心寺派とでは、かかわり方に差異があったことを指摘した。

 第二章「遣明船と京都商人」では、従来の研究において堺と博多のみが注目されがちだった、遣明船貿易に参加した商人について、京都商人の銭氏、角倉吉田氏および同氏を中心とする土倉集団、五井氏の三者に焦点をあてて、その詳細を究明した。まず、文明年間以後の遣明船の過半に参加していた銭氏については、その系譜を明らかにし、通事としての活動のみが注目されてきた同氏が商業活動をおこなっていたこと、薬種商を営んでいた可能性があり、貿易に従事したと想定されることを指摘した。次に、角倉吉田氏および同氏を中心とする土倉集団については、吉田宗桂の活動を確認したうえで、ほかにも同集団から豪忠が天文八年度船に参加していたこと、それ以外の同集団構成員についても、同船副使策彦周良とかかわりが深かったこと、豪忠の参加は策彦の周旋によるものであろうことを明らかにした。それから、同船搭乗者五井氏については、これまで堺商人とされてきたが、そうではなく京都商人であることを論じ、北九州までを活動範囲におさめる遠隔地商人であり、金融商人でもあったことを示した。そして、これらの事例をもとに、京都商人の遣明船への参加の実態を示すとともに、遣明船に参加した貿易商人の多様性を明らかにした。

 第三章「遣明船貿易から倭寇・南蛮貿易へ――堺商人日比屋の活動からみた――」では、堺商人日比屋一族の分析を通じて、遣明船貿易と、その後の時代の倭寇貿易・南蛮貿易、すなわち中国沿海の島嶼部での貿易(島嶼部貿易)や日本へ来航した中国船やポルトガル船との貿易(来航船貿易)との、連続性の実証を試みた。まず、日比屋を名乗る商人の活動は、一五三〇~一五四〇年代の遣明船貿易と、一五六〇年代の来航船貿易に見出されることを指摘した。次に、来航船貿易に従事した了珪とその親族について、従来説を訂正しつつ、一族構成とその特徴を解明した。そのうえで、遣明船貿易に関与した日比屋と来航船貿易に携わったそれは同族と見なせることを論じ、遣明船貿易と来航船貿易の連続性を示した。さらに、天文二十三年初頭に明へ渡航予定だった助四郎の事例を紹介して、その渡航が島嶼部貿易のためだったことを指摘し、彼は日比屋関係者の可能性があり、この一族は遣明船貿易と来航船貿易だけでなく島嶼部貿易にも従事していたことが想定され得る点に言及した。そして、この日比屋の事例が、十六世紀半ばの環東シナ海域情勢の転換期にあって、遣明船貿易商人が倭寇・南蛮貿易商人へと面を変えつつ貿易を継続した、日本人商人の活動の一端を示していることを指摘した。

 以上を踏まえ、終章「結論と課題」では、本論文の検討結果をまとめるとともに、研究史上の意義を説明し、今後の課題を示した。