本論文は,一般的には5~6世紀ごろのものと言われるタミル二大叙事詩であるCilappatikāram『シラッパディハーラム(踝飾り物語)』(以下Cil.と略す)とMaņimēkalai『マニメーハライ(宝石の帯)』(以下Mani.と略す)の成立に関して,単に両者の比較年代のみならず,それぞれの叙事詩の複雑な形成過程も論じ,明らかにした研究である。

 第1章では,問題の所在を論じた。タミル二大叙事詩は,話の筋や登場人物において関係が深く,古来「双子の叙事詩」と呼ばれてきた。話の筋の上では,Mani.のヒロインであるマニメーハライがCil.に登場しており,Mani.で詳しくそのヒロインのことが語られていることから,Cil.のほうが先行していて,Mani.はCil.の後日談に過ぎないと,一般的には考えられている。しかし,両叙事詩を精読してみると,両叙事詩の間に一貫したストーリーのつながりはなく,Cil.が前半部分として作られて,Mani.がCil.の後日談を描くという単純な前後関係ではないことがわかる。この前後関係については,中世の注釈者Aţiyārkkunallār(13世紀ごろ)が,Cil.の序文の記述のとおり,まずMani.の作者がMani.を作り,その物語をCil.の作者に語ったのちに,Cil.が作られたと注釈している。

 他方で,Cil.を精読すると,マニメーハライは枝物語においてのみ語られていることがわかる。Cil.が他のインドの叙事詩と同様,枠物語の中に枝物語が含まれるという形式である以上,後世における付加についても考慮する必要がある。さらに,Cil.の第3篇は物語と深くは関係していないこともあり,後世の付加であるという議論もしばしばなされている。 したがって,タミル二大叙事詩は,すべての話が単純に成立したものではなく,Cil.とMani.の前後関係,序文の記述の問題,枠物語と枝物語の問題,後世における付加の可能性など様々な問題を考察した上で,その成立を明らかにしなくてはいけないことを指摘した。

 第2章では,両叙事詩の序文の記述,およびCil.の序文に対するAţiyārkkunallārの注釈について考察した。Aţiyārkkunallārは,ジャイナ教徒であるCil.の作者と仏教徒であるMani.の作者が話しあって二大叙事詩を作り上げたと解釈しているが,Mani.にはジャイナ教に強い敵意を示している描写があることから,両叙事詩の作者が話しあったということはありえないことを指摘した。また,両叙事詩における法,財,愛,解脱の描き方やAţiyārkkunallārが依拠したであろう詩論書 Taņţiyalaʼnkāram(12世紀ごろ)の詩節を検討した上で,Aţiyārkkunallārの解釈は妥当ではないことを明らかにした。

 そして,先入観を持たずに両叙事詩の序文を読むという作業を通じて,Cil.の序文に登場するサーッタンとは,Mani.の作者のことを述べたのではないという結論に達した。また,サーッタンという名前について,その語源やサンガム文学などの用例を元に考察して,Cil.の序文のサーッタンは,サンガム文学に登場する有名な詩人名を利用したのではないかという新たな見解を示した。

 第3章では,Mani.はCil.の後日談であるのかどうかについて考察した。これまでは,Mani.は,Cil.の単なる後日談であると解釈されているが,その前提でMani.を読むと,Cil.の中で出家したはずのマニメーハライが,Mani.では美しい長い髪を備え,装飾品を帯びているという矛盾が生じてしまう。この矛盾を解消するべく,彼女が物語の途中で出家するという解釈や,既に出家しているが新しいスタイルの尼僧であるという解釈などがなされている。しかし,Mani.におけるマニメーハライや母マーダヴィなどの描写を検討して,彼女らが出家者としては描かれていないことを明らかにした。

 また,Mani.が,Cil.の後日談であるという先入観を持たずに,Mani.のストーリーを自然に追って解釈すると,筋の一貫した,非常に魅力的な作品になることから,Mani.は,Cil.の単なる後日談などではなく,Cil.と登場人物の何人かを共有する,別個の作品であるという新たな解釈を提示するに至った。

 第4章では,Cil.のどの部分が後世の付加であるかを明らかにした。まず,Cil.の特徴について考察し,物語が時系列に沿って素朴に進むことが,Cil.の特徴であることを指摘した。その特徴を念頭に置きながら,Cil.を原文に基づいて忠実に読むと,第15章のマニメーハライの誕生の挿話や第27章のコーヴァラン夫妻の家族についての挿話,またCil.の最終部分である第29,30章などは,Cil.の特徴に相反する不自然な箇所であり,後世における付加であると結論づけた。

 さらに,Cil.の第3篇全体が後世の付加であるという主張に関して,それが正しいかどうかについて考察した。第29,30章は後世の付加であるという結果を踏まえて,第28章までが元々のCil.であるとした場合,そもそも第3篇が後世の付加かどうかという議論にはならなかったであろうという結論に至った。

 第5章では,Cil.とMani.の前後関係を明らかにして,その成立過程と年代とを考察した。まず,Mani.が先に作られたと仮定して,Mani.だけを読んでみた結果,Mani.では,物語の背景やマニメーハライについての人間関係など,物語にとって不可欠な要素が説明されておらず,あらかじめ,それらを知らなければ,物語を理解できないことを明らかにした。したがって,Mani.はCil.の物語についての知識があることを前提として作られたものであるという結果が得られた。

 さらに,Cil.の物語は人気があり,民間版も含めて様々なヴァージョンがあることから,Cil.の原話(ur-text)の存在も考慮し,それにマニメーハライについての挿話が含まれていたと仮定して,両叙事詩の前後関係についての考察を行った。その結果,原話にマニメーハライの挿話が含まれていたのなら,Cil.では,時系列に沿って,マニメーハライの話が語られていたはずであり,したがって,Mani.の後にCil.が作られたという順序は成立しないということが明らかになった。

 続いて二大叙事詩の成立年代についての考察を行ったが,二大叙事詩以外の古典タミル文学の作品の成立年代すら明らかになっていないことから,従来の説を検討しつつ,おおよその成立年代を指摘するにとどめた。

 まず,Mani.の第29章の仏教論理学部分を取り上げ,物語で果たしている役割などを考察して,Mani.の序文が作られた後に付加されたという結論に達した。

次に,バクティと二大叙事詩との関係を取り上げて,他宗教を攻撃するというバクティの性格,およびバクティ以降のジャイナ教作品の作風の変化に基づき,Cil.はバクティが始まる前のカラブラの時代,5世紀頃に成立したという結論に至った。一方,Mani.については,ヴィシュヌ派のバクティ詩人について描写した詩節があることから,バクティが始まって宗教対立があった頃の作品であると指摘するとともに,Tirukkuralの詩節が引用されていることを踏まえ,7世紀頃に成立したという結論に至った。

 本論文では,以上のようにタミル二大叙事詩の成立に関する考察を行い,以下のように結論づけた。

 まず,カンナギの悲劇の題材となった原話があり,その原話を基にして,音楽や踊り,土地の描写などを織りこみつつ,Cil.の物語が作られた。そして作者の才能が余すことなく発揮された結果,Cil.は非常に人気を博し,Cil.にマニメーハライの挿話などの後日談が作られて付加された。

 その後,バクティ運動が始まる中,ジャイナ教に激しい敵対心を抱いていたMani.の作者は,Cil.の中に登場するマニメーハライを題材として,Mani.を作ることを考えたが,ただCil.の後日談を作ったのでは,Cil.のみならず,ジャイナ教の優位を認めることになってしまう。そこで,Mani.の作者は,サーッタンがイランゴーに話した物語を基にCil.が作られたというCil.の序文の記述に注目し,Cil.の序文の記述に見合うよう,あくまでサーッタンがイランゴーに話した物語として,Mani.を作った。そして,そのような作者の意向を反映したMani.の序文が作られ,その後に,第29章に仏教論理学部分が付加された。さらに,AţiyārkkunallārがMani.の作者の意向通りの解釈を行なって,二大叙事詩は,Mani.が先に作られたという逸話を含んだ「双子の叙事詩」と考えられるようになった。

 以上,これまでややもするとタミル二大叙事詩を仔細に見ることなく論じていたのに対して,本論文では,それらを読みこんで,かつ伝統にとらわれることなく新たな解釈を試みた。