問題のありか

グローバル化といわれる世界的なヒト・モノ・カネ・情報の移動が激しくなった現代,日本に長く暮らし,日本の学校で教育を受けて来たニューカマーの子ども達は大変多い.2012年5月の時点で,71,545人の外国籍児童が日本の公立学校(小学校,中学校,高等学校,養護学校)に在籍していた.そのうち,日本語の指導を必要としなかったのは,44,532人で,62.2%に及ぶ(文部科学省 2013).こうした外国籍や外国にルーツをもつ日本国籍の児童が,日々外国出身の保護者や成人とのコミュニケーションを重ねていることは,想像に難くない.実際に,こうした子供たちはどのような言語生活を送っているのだろうか.

会話における言語の切り替えであるコードスイッチング(以下CS)のメカニズムの研究は,欧米ではある程度の完成をみている.特に,ミクロな相互行為とマクロな社会情勢の関係については,ますますそのつながりの研究がなされてきている.近年の欧米での多言語使用研究は,より具体的で応用的な問いを元にしている.しかし,日本における移民コミュニティの多言語使用研究は,具体的な日本語教育,日本語習得や継承語教育,継承語習得に関する研究が進んできているものの,日本語を使用しなければならないという制度的な制約が少ない移民コミュニティ内での自発的な言語選択の実態に関する研究は少ない.また,継承語に関する理念と継承語を使用できるとされる場面における言語選択の乖離,欧米の学術界における近年の議論と日本における移民コミュニティにおける多言語使用の研究の傾向との乖離という課題が存在する.

 

本論文の目的

本研究の目的は,移民コミュニティ内でバイリンガル児童がどのような言語使用が行われているのかを,実際の活動の談話データを元に記述し,分析することにある.その記述とは,コミュニケーションにおける具体的で応用的な問題を指摘するのではなく,移民コミュニティ内でバイリンガル児童らが,その場その場でどのように言語を用いて対応しているかを詳細に描きながら,彼らにとってのそれぞれの言語の社会的な意味や機能をボトムアップに分析し示すことである.コンテクストを踏まえた詳細な分析こそが,これまで挙げてきたミクロとマクロの関係をさぐるのに重要であると同時に,これまでの日本における多言語使用研究であまり注目されなかったことである.具体的には,次の問いに答えることを目的にしている.

l  コミュニティの児童とコミュニティの成人,それぞれの社会規範が交錯するモスク教室という場で,どのように言語使用を行い,社会関係を構築しているのか.

l  児童はどのような言語使用をしているのか.

l  それぞれのスタイル(コード)は,どのような意味をもつのか.また,切り替えはどのような意味をもつのか.

l  何語/どのスタイルが,どのような言語行為に使われるのか,そしてそれはなぜか.それはどのようにしてそうなるのか.

 

本研究の意義

本研究の意義は,三点に集約される.第一に,移民の子どもの談話分析がなかった日本において,本研究が,その研究上の空白を埋める一歩となった.移民コミュニティ内の子どもに対するアンケート調査はあったが,移民の子どもの自然談話の研究は殆どない.欧米ではすでに多言語使用と児童に関する様々な研究が盛んであり,日本でも日常的に多言語使用を行っている児童の言語使用に関する知見を得ることは,今後そうした児童が増えることが見込まれることもあり,また世界的な現象であるため,研究に値する.

第二に,自然談話データを通して,CSやスタイルシフトの議論における,新たな展開を目指すことができた.本研究では,日本語やウルドゥー語といった言語間のCSに限らず,スタイルシフトの研究に関しても貢献することになった.児童の談話や,コンテクストに埋め込まれた自然談話というものは,あまり分析のデータとして使用されてこなかったが,本研究は未成年の話者も含めた日本語のスタイルのシフトに関して貢献できると考える.これまでの日本の社会言語学では,多言語使用研究や言語接触の現象(CSなど)と,言語変異の研究(スタイルシフトなど)が,独立して研究されてきた.CSの分析を,スタイルシフトと同列に分析し,対照させることは,日本語のスタイルがどのように使われているかというスタイルシフトの実態の解明に貢献する.

第三に,移民コミュニティにおける自然談話を分析することにより,移民コミュニティ内の文化的実践やコミュニティの構造,価値観などを,アンケートやインタビュー等以外の手法から明らかにした.言語使用は,そのコミュニティの社会構造や,文化的価値観を解明する第一歩であると言われる.また,コミュニティ内での言語を通した活動には,コミュニティが文化として守ろうとしているもの,価値観,権威が,大変よく現れる.本研究の対象となったのは小さなコミュニティの教師と児童らのデータからも,彼らがイスラームや移民一世である成人との関係,移民一世の継承したい価値観や文化を様々な形でことばに表現した.

 

本論文の構成

本論文は以下の構成に基づいている.第1章では,本論文のテーマである,日本語が流暢な外国にルーツをもつバイリンガル児童らのコミュニティ内での言語使用の研究の少なさを指摘した上で,CSに関する欧米および日本の主要な先行研究を概観する.その上で,本論文の目的が実証的な研究の少ない児童の自然談話における多言語使用のエスノグラフィー的な質的分析を行うことであり,その分析からコミュニティ内における児童の意味世界や社会関係,価値観を探ることの意義を確認した.

第2章では,Gモスク教室とそこをとりまく社会文化的背景をなぞった上で,会話参加者の背景に言及した.特に,パキスタンにおけるダイグロッシア状況と,Gモスクおよびイスラーム教の汎民族性が,ウルドゥー語あるいはパキスタンの民族語の教育に対するモチベーションの低さに関連している可能性があることを確認した.

第3章では,児童らが継承語であるウルドゥー語,学習言語であった英語,日常的に使い続けている日本語を,量的にどの程度コミュニティ内の英語の教師とのやりとりに使用していたかを見た.その結果,2007年と2009年とでは言語選択に大きな違いが表れたほか,教室内に他に児童がいるかどうかが,ウルドゥー語の使用に関わる可能性があったことがわかった.日本語とウルドゥー語がほぼ同程度だった2007年に対し,2009年には,日本語の使用が圧倒的であったが,この事実は,バイリンガル児童の言語選択は,たとえ彼らの運用能力に大きな変化がなくても,1年半だけで,大きく変化する可能性を示唆した.一方で,兄弟であった三人の児童のウルドゥー語の使用が減ったのは,兄弟以外で,仲のよい児童がいる日である可能性がある.このことは,児童らが常に第一世代に対して同じような言語使用をするとは限らず,同席の参加者との関係性によって言語選択に少し影響を受けることを示唆した.

第4章では,児童と教師は運用能力の調整としてCSを行なったり,語の意味を聞きあったりしていることもあるが,そうした例だけではなく,他にも教師の関心を引いたり,ダイクシス表現の切り替えを行なうなど,様々な場面でCSが見られたことを指摘した.また,児童と教師は常に完全にお互いの発話を理解しているわけではないこと,理解し合わないということがときに互いのメンツを保つストラテジーであったりすることを指摘した.

第5章では,成人に対する呼称や教師に対する呼称の使用と,CSによる発話相手の限定を論じた.どちらも,ウルドゥー語や英語が児童らと教師とで同じように共有され使用されるのではないことを指摘し,談話において参加者の管理としてCSが機能していることを指摘した.

第6章では,CSによるスタンスの構築―すなわち,ある参加者ないしある参加者の行為に対するalignment/disalignmentの構築を論じた.具体的には,ウルドゥー語を使用して教師とalignmentを構築する例,そしてウルドゥー語を使用することにより,他の児童とのalignmentをやめる(disalignment)例を見た.また,ウルドゥー語でalignment/disalignmentの構築を行なっている一方で,「ですます体」の使用も,alignment/disalignmentの構築と似たかたちで,権利と義務の交渉と,他の児童への否定的な評価が行なわれていることを示唆した.

第7章では,児童らによってウルドゥー語による引用が強いインパクトをもたらすように使用されており,それはウルドゥー語で引用することがコミュニティ成人の権威により訴えることになっていることを示した.また,日本語でのコミュニティ成人の引用においても,強調するような言語的特徴も見られたことを指摘した.

第8章では,接触日本語変種を使用するという児童によるcrossing現象を分析し,2007年のものと2009年のものとで違いがあったことを示した.2007年は教師と対等な立場に立とうとしたような場面が多かったのに対し,2009年では交感的に使用することにより,児童らの連帯をつくると考えられるものが多かった.

第9章では,ウルドゥー語や接触日本語変種に限らず,「先生のスタイル」やお笑い,テレビ番組など,日本語のさまざまなレジスターや英語などに切り替えることによって,文脈を越境する創造的な言語使用を行なっていることを指摘した.

第10章では,本研究で得られた成果をまとめると共に,児童の言語使用について概観し,本研究の今後の課題と展望を述べた.