本論文は「百首和歌」と呼ばれる詠作形態が持つ特徴の解明を目的とする。百首和歌とは、百首を一単位として詠む和歌の詠作形態のことで、天徳四年(960年)成立の『好忠百首』に始まり、十二世紀初頭の『堀河百首』を画期として、中世、公的な場で和歌を詠進する際の最も重要な形態として定着していった。先行研究では個々の作品に即した考察が進展し、特に『堀河百首』や、新古今時代の後鳥羽院や定家、慈円らの百首和歌などに注目が集まっているが、百首和歌という詠作形態自体がもつ特質についてはいまだ統一的な見解が成立していない。このような研究状況を踏まえ、本論文では百首和歌という詠作形態がいかなる条件を詠者に課すものなのか、また詠者の創造力をどのように刺激するものであったのかを個々の作品の分析を通して検討することを目指した。具体的には、中世百首和歌において最も重要な詠作契機である「応制」と「奉納」の両面から百首和歌の特質を見出だそうとした。

 第一編は応制百首に関する論考から成る。応制とは天皇や上皇の命令による詩歌の詠進のことで、堀河天皇の下命とされた『堀河百首』以来、百首和歌の重要な詠作契機と位置づけられた。本論文でとりあげる『久安百首』は崇徳院の命令により、久安六年(1150年)におおよその完成をみた応制百首である。これまで『久安百首』は『堀河百首』の影響下にある作品として、俊成の詠作を除けば、それほど重視されてこなかった。だが、その後の中世和歌の好尚の方向性を決定づけるような内容を持つことが考察により明らかとなった。

第一節では『久安百首』の羇旅部について考察し、従来の題詠では主題となり得なかった「旅」を主題として位置づけたこと、旅宿詠が中心であった『堀河百首』の「旅」題詠に比べ、多様な旅の様相を描くことを志向するようになったことを明らかにし、題詠の羇旅歌の転換点となる作品であったと指摘した。このような転換が『千載集』以降の羇旅部の方向性を決定づけたのであった。

第二節では『久安百首』雑部の「短歌」に着目し、不遇沈淪を訴嘆する『堀河百首』の「述懐」題詠にくらべ多様な「述懐」が見られること、主催者である崇徳院を寿ぎ、百首作者に加えられた喜びや謙辞が目立つことを指摘した。このような「短歌」の内容は、『古今集』などに見られる「短歌」や詩序の「述懐」の方法に近似すると考えられる。また『久安百首』では「短歌」部だけでなく百首全体のバランスの中で、不遇沈淪の嘆きと主催者への慶賀等の配置が考慮されていることを明らかにした。そして、『久安百首』における「短歌」部設定は臣下の嘆きを受け止めようとする崇徳院の意志を反映したものであり、そのような志向は臣下の訴嘆を受け止めた堀河天皇の姿に倣ったものであるという見通しを述べた。

 第二章では、『久安百首』歌人である二人の廷臣に着目し、応制百首の周辺で行われた和歌活動から応制百首の役割を逆照射しようと試みた。

第一節では崇徳院の近臣であった教長の羇旅歌について、保元の乱後の配流により教長の羇旅歌の主題が風雅なものから辛苦を詠ずるものに一変すること、そして、教長の辛苦の羇旅歌がその後の題詠の旅歌の詠法に影響を与え、『久安百首』で芽生えた題詠の羇旅歌の進展を後押ししたことを指摘した。

第二節では藤原隆季の若年期から晩年までの和歌活動を概観し、平安時代末期の官人にとっての詠歌の意義を考察した。従来、風雅への志向という側面が強調されてきたが、隆季にとっての和歌が立身出世(特に兄弟間での競争や子息の教育)に重要な役割を果たしていたことを、隆季の伝記と重ね合わせることで明らかにした。

 第二編は寺社に奉納された「奉納百首」に関する論考から成る。

第一章第一節では、従来用語も定義も曖昧なままであった「奉納和歌」について、「法楽」を含めた広義「奉納」という概念を提唱し、平安期の和歌から「奉納」と呼び得る事例を収集した。その結果、寺社に歌集や歌合、定数歌を納めるだけが「奉納」なのではなく、奉納物や聖域内の物に和歌を書きつける行為や参詣途上で詠まれる和歌も「奉納」としての役割を担っていたこと、書記された物だけでなく時には「声」や心中の詠もまた「奉納」と成り得る(時には「書く」ことよりも重要な媒体であった)ことを指摘した。さらに、このような奉納和歌の史的展開をおさえることで、個人の寺社奉納和歌や貴顕の参拝に付随する大規模歌会が、従来の奉納和歌史の空白部分に位置づけられることを明らかにした。また、人々が神仏に和歌を奉納するのに応じるように、神仏から人々への和歌も記されるようになっていった。このような記述の背後には、奉納和歌が本当に受納されるのかという人々の懐疑があり、その懐疑の払拭のため、そして奉納の実効性を保証するために、神仏の応答が必要とされだすのだと結論づけた。

 第二節・第三節では、奉納百首の始発に位置づけられる『寿永百首』について考察した。『寿永百首』が賀茂社奉納のために編纂されたことは早くから知られていたが、百首らしからぬ構成から従来の研究では私家集とほぼ同一視されていた。しかし、奉納という観点から再度見直してみると、通常の家集には見られない贈答歌の選択や和歌の排列が見られることが判明した。第二節で取り上げた『経盛集』では、経盛自身の詠歌の力量が最も引き立つように他人詠が配置され、奉納意図――危機的状況に陥っていた平家一門の救済――に即した排列が試みられていた。第三節の『長明集』に関する考察では、従来長明の「ひ弱さ」が露呈した述懐歌とそれを窘める年長者・鴨輔光の返歌と解されてきた贈答歌を、奉納という意図から読み解き直し、述懐歌群の中に他人詠(鴨輔光の歌)を巧みに配することで長明の願望が高望みなどではなく同じ一族の人間からも承認され得るものであること、そしてそれを賀茂の神に訴える意図があったことを指摘した。

 第二章では「天神仮託歌集」とよばれる作品を取り上げた。従来の奉納和歌では人々が神に奉る歌だけを「奉納」と捉えてきた。しかし、第二編第一章第一節で示したように、人々の奉納和歌と対応するように神仏からの詠歌が存在した。応制和歌で帝と臣下の歌が対になるように、奉納歌と神仏の託宣歌もまた対になる。奉納歌と託宣歌の双方を見ることで奉納和歌の全体像を把握することが可能となろう。第二章では、最も人々に親しまれ、多くの仮託和歌を残す「天神」に着目し、作者を天神に仮託する「天神仮託歌集」がどのように生み出され、生成の背後に人々のどのような信仰が存するのかを考察した。

第一節では「天神仮託歌集」のうち、貞治元年(1362年)神託により発見されたという伝承を持つ百首「貞治元年神託百首」が形成される過程を検討した。「貞治元年神託百首」には形成の核となるような史実や和歌が存し、それらを調査することにより本来は北野社等に奉納された和歌が天神の百首へと変形・再構築されたものだと結論づけた。そしてそのような和歌が創造される背後には、神仏への贈歌である奉納和歌に対し、神仏の応答の和歌が希求されるようになったのではないかという見通しを述べた。これまで「天神仮託歌集」の由来は明らかでなく、内容もいかがわしいものとして和歌研究の対象とはみなされなかったが、平安末期から盛んになる天神信仰の一端を示すものとして、今後検討されるべき問題であることを提起した。

 第二節では、第一節でとりあげた「貞治元年神託百首」の最善本と考えられる実践女子大学山岸文庫所蔵の『天神百詠』について紹介し、書誌や他本との比較状況を記し、百首和歌発見譚を備える最善本と呼び得る本であることを指摘し、全文の翻刻を附載した。

 百首和歌という詠作形態は応制百首にしろ奉納百首にしろ、通常の和歌とは異なる、やや改まった詠歌形態として意識されていた。それゆえ、一首一首の和歌をどのように詠むかという「詠者」としての配慮だけではなく、百首の和歌をどのように配するかという「編者」としての力量も問われる作品であった。そのような「詠者」と「編者」の立場が交錯することで羇旅歌のような新たな題詠の表現の方向性が見出だされ、「短歌」を初めとする述懐の方法が模索されることとなった。また、応制百首と奉納百首、仮託百首を総合して検討することにより、上位者(帝や神)と下位者(廷臣や人)の関係が下位者から上位者への訴嘆という一方通行なものではなく、和歌を通して上位者もまた下位者に呼びかけ求心力を生みだそうとしていたこと、そのような上位者の呼びかけに応じるように下位者もさらに和歌を奉献するという双方向の交流が確認できた。とりわけ崇徳院の『久安百首』は〈帝〉が廷臣に和歌でどう応じるかという問題を生み出した。『寿永百首』生成の基盤となっていたのは賀茂神の奇瑞と所願成就を約束する宣誓歌であった。「天神仮託百首」は、人々の天神信仰に応じて誕生したものであり、和歌を詠まなくとも天神の和歌を信奉すれば神の加護があると約束することで、人々のさらなる信仰をかき立てる役割をもっていた。

 応制百首も奉納百首も下位者が上位者へと奉るものというだけでなく、上位者と下位者が相互に和歌を以て交流していた。このような相互に和歌で〈応じる〉関係こそが中世百首和歌を最も特徴づけるものであると考えられるのである。