本研究では、主として7世紀後半から8世紀中葉における天皇(大王)・皇親(王族)・貴族・豪族・寺院などの大土地経営の特性や歴史的展開について、前後の時期との連続性にも着目しながら明らかにした。
 「本研究の課題と構成」では、日本古代の大土地経営に関する研究史を整理し、本研究の目的と各章の組み立てを示した。1970年代までの大土地経営に関する研究は、大化前代のミヤケ・タドコロと、8世紀中葉以降に展開した「初期荘園」を中心に進められ、7世紀後半~8世紀中葉における大土地経営は研究上注目されてこなかった。80年代になると大土地経営の連続性に注目する必要性が提起され、新出史料の発見や研究手法の深化などと相まって、古代の大土地経営の連続性や通時的な特徴が解明されていった。本研究ではこうした成果に立脚しつつ、国家的土地制度との相互関係の変遷に留意しながら、大土地経営の時期ごとの特徴と歴史的展開を明らかにして、古代社会の特質にせまることを最大の課題とした。
 第1部「律令制下の大土地経営の特質」では、8世紀初頭における大土地経営をめぐる基本的な構造や、7世紀後半における国家的規制の創出とその周辺事情を扱った。
 第1章「律令制下の大土地経営と国家的規制」では、8世紀初頭の大土地経営の概況と、経営に対する規制の枠組み、および規制の創出過程を明らかにした。8世紀初頭、大化前代に成立した大土地経営体は社会に広く残存しており、地目ごとに令制の構造に即した規制を受けていた。この構造が形成されたのは、7世後半である。孝徳朝に示された方針に沿って進められた諸政策によって耕地(特に水田)を中心とした土地管理体制が形成されていく一方、貴族や豪族層の大土地経営体は実態としてほぼ温存されて大宝令制下に引き継がれていったのである。制度と実態のこの微妙な緊張関係が、8世紀の大土地経営をめぐる基本的なあり方だったといえる。
 第2章「大土地経営を支える論理―「林」の機能―」では、山野の中で例外的に独占的な経営を認められた「林」について、存在形態や土地経営上の役割を考察することで、8世紀初頭の大土地経営を維持するために利用された論理の一端を明らかにした。8世紀初頭の史料にみえる「百姓宅辺」「氏々祖墓」という2種の「林」は、貴族・豪族層によって所有され、経営拠点や墓地という具体的な物件に所有権を依存した地目であった。こうした「林」は、律令制国家の構成した土地制度とは異なる前代的な論理を内包しており、有力者の経営の排他性を補完する装置として機能していた。律令制下の大土地経営には国家との関係において意外な脆弱性があり、経営の維持のためには前代から続く様々な論理が用いられていたのである。
 第3章「 天武・持統朝の山野支配―禁制地の実相―」では、禁制地(公権力によって禁制を敷かれた山野)を素材として、7世紀後半における王権の山野支配の実相を明らかにした。天武・持統朝の禁制は、天武年間に山野の排他的支配が禁止されたこととの矛盾を回避するために、従来の在地や王権と山野の関わりを再確認するものだった。この時期には中国的な山野支配理念が本格的に導入されて、関連する法令も整備されたが、実態としての王権の山野支配自体は深まっていなかったといえる。
 第2部「寺領にみる大土地経営の歴史的展開」では、寺院の所領を考察の対象として、律令制的土地制度の中核たる「田」の特徴と展開、そしてそれにともなう大土地経営体の変容について考察した。
 第1章は「「寺田」の成立―大和国弘福寺を例として―」と題し、8世紀初頭の「寺田」の特徴や機能、寺領全体の中での位置づけなどについて具体的に検討した上で、その成立過程や8世紀前半に生じた問題などを明らかにした。8世紀初頭における大和国弘福寺の所領は、多様な地目で構成される複合的な経営体であり、その多くは大化前代に宮の付属地やミヤケなどとして開発された所領を引き継いでいた。「寺田」は、こうした経営体の一角に後次的に設定された空間であり、政府が寺領の把握と統制を行う足がかりとして機能していた。孝徳朝以来進められた寺領の把握の結果として、和銅年間に「寺田」の地積が確定された。一方で、ここで実態としての寺領と政府の把握する「寺田」は乖離は決定的となり、これ以降は両者の統合が課題とされていったのである。
 第2章「寺領の歴史的展開―筑前国観世音寺領杷伎野を例として―」では、7世紀中葉から8世紀にかけての筑前国観世音寺領杷伎野の状況を復原することで、8世紀を通じた寺領と「寺田」の関係性の変化や、その動因などを明らかにした。大宝年間に国家的土地制度には完全に適合しない形で施入された杷伎野では、8世紀を通じて「墾田」の地積が拡大していった。この変化は、「寺田」を中心とする国家的把握と実際の寺領の広がりの乖離状況を克服する動きとして把握できる。その動因となったのは、「墾田」という地目を利用して政府の圧迫や農民の侵入といった不安要素の解消をはかる寺家の主体性にあった。同様の事態は、他の寺領、さらには貴族などの有力者の経営体でも進行しており、公権力の保障の下での土地所有制を日本列島に定着させる結果をもたらした。
 第3部「ハタケ所有の特質と変化」では、ハタケ所有の特徴と変化から8世紀における土地をめぐる環境の変化を見通した。
 第1章「ハタケ所有の階層性―「園地」規定の背景―」では、令に規定された唯一のハタケ的地目である「園地」を素材として、8世紀初頭までのハタケ所有のあり方について検討した。田令に規定される「園地」は、①公権の下での諸階層の公平な利用と、②「田」と比較して強い処分権という、2つの特徴を併せもつ地目として設計されている。このうち②は、有力者の大土地経営体である「園」の存在を背景とした規定として把握できる。一方の①には、共同所有的状態にあった農民のハタケを保護する意図が込められていたと想定できる。「園地」に関する規定は、8世紀初頭に有力者の大規模なハタケ経営と農民による共同利用的なハタケ耕作の大きな隔たりを反映していたのである。
 第2章「「陸田」の特性とハタケ所有の変化」では、8世紀を通じたハタケ所有の状況の変化について考察した。8~9世紀における「陸田」は、あらゆる階層に所有されるハタケであり、「田」の一類型として文書によって管理されていた。養老年間に既存のハタケを「陸田」に組み替える政策が出されたことにより、ハタケが「陸田」として管理される前提が成立し、階層ごとに所有状況が異なっていたハタケは均質の所有権が内在する地目へと転換していった。律令制的土地制度の進展によって、有力者のハタケ経営は農民と共通の基盤の上でなされるようになったのである。
 付論「王権による牧の支配―信濃国の御牧系牧を中心に―」では、平安期に重視された公的な牧である御牧が最も濃密に分布した信濃国を舞台として、大化前代より平安時代までの牧と王権の関わりを探った。信濃国の御牧に連なる牧は、古墳時代から王権と直接の関係を結んでいた。令制が成立した後も天皇家の私領的牧として存続し、その後は天皇との関係を維持しながら、内厩寮・左右馬寮といった官司の支配を受けていった。信濃国の牧は6世紀以前から平安時代まで一貫して王権と直接的な関係を持ち続けていたが、律令制国家の展開にともなってその周辺環境は大きく変化していったのである。
 終章「大土地経営の歴史的展開と社会」では、諸章で検討した8世紀中葉までの大土地経営の歴史的展開について、土地をめぐる全般的な状況も視野に入れながら再構成した。7世紀前半までに設定された複合的な経営を特徴とする大土地経営体(ミヤケ・タドコロなど)は、農民層と隔絶した経営の規模と論理を有する一方、経営の正当性は所有者の実力に由来しており、呪的な部分も含む様々な論理によって経営が維持されていた。孝徳朝には経営体を構成する地目ごとに掌握と規制を行うという方針が示され、天智朝における土地把握の進展や天武朝での山野支配の否定を経て、耕地を中心とした規制体制が構築された。班田制の進展の中で、大土地経営体内の耕地の一部(水田など)は「田」として認定されて国家的土地支配体制に包摂されたが、開墾地・開墾予定地・山野などの多くはその埒外に置かれることになった。一方で、大土地経営体の形態そのものは大化以前から殆ど変化しなかったために、実際の経営体の広がりと国家的な把握の間に深刻な乖離が生じてしまった。政府はその是正を試みるが奏功せず、課題として残されることになる。一方、この状況は大土地経営体の所有主体にとっても経営の不安定性を惹起する要因の1つとなっており、その克服が望まれた。8世紀中葉までに墾田法が整備されていくと、大土地経営体の内部には「墾田」が増加していく。これは有力者たちが経営の安定性を高めようとして、国家的土地制度に積極的に参与した結果である。こうして大化以前に成立した大土地経営体は8世紀中葉にようやく国家的土地制度に位置づけを得て、その安定的な経営が可能となったのである。
 本研究で得られた結論をより抽象化すると、8世紀中葉までに公権の保障に支えられた土地所有が確立したということになる。ここで成立した「土地所有」は、9~10世紀における土地税制を準備し、中世以降の社会の基盤となっていった。本研究の対象となった時期は、この意味で列島の歴史の大きな転換点だったといえる。