本論文は、古代地方政治の中心的な施設であった倉庫制度の検討を通じ、日本古代の地方支配構造の解明を目指したものである。古代倉庫制度を検討することの理由は、以下の四点にある。すなわち、①律令の篇目に倉庫令があり、格式や地方財政の収支を記した正税帳などの文献史料が豊富に残っている、②地方官衙の中心的施設であり、その出納業務や管理システムなど、地方行政の具体的様相の検討材料となりうる、③賦税納入、運搬や修理などについて地方社会内での人的まとまりや労働力の差発体系を明らかにすることが可能である、④日本だけでなく、穀物を賦税として納入していた東アジア世界全般に共通する施設である、という点である。特に、地方行政組織である国郡における正倉は、京(中央)と国郡(地方)、国郡と百姓という二つのレベルを結びつける施設でもあり、制度的側面と実態的側面の双方からの検討を行うことができる。そこで、本論文では、倉庫システムにかかる多面的な考察を行い、倉庫が何故支配の中心たり得たのか、どのような過程をたどって地方支配の中に位置づけられたのかについて検討することで、古代における地方支配の構造的特徴を描き出すことを試みた。

 本論文では三部構成をとり、検討を進めた。各章で検討した内容は以下の通りである。

 序論では、日本古代地方制度研究の課題をまとめ、日本古代地方支配構造と倉庫制度との関連について述べた。

 第一部「律令倉庫制度の研究」では、日本倉庫令の性格と導入の特徴を明らかにし、法制面における倉庫研究の基本的理解を新たに提示した。これは、古代国家がどのような目的をもって倉庫の管理運営を規定したのか、言い換えれば古代国家が倉庫をどのように捉えていたのかを明らかにすることを目指したものである。

 第一章「日本古代倉庫制度の構造とその特質」では、倉庫関連規定の中心となった倉庫令の性格を分析した。倉庫令は日本令・唐令ともに全容が明らかになっていないため、まず中国北宋天聖令をもとに唐令の排列復原案を提示し、その上で、養老令逸文と復原唐令との比較を行った。その結果、日本倉庫令は唐令から日本に導入可能と思われた条文を選択的に継受したことを明らかにし、日唐間で条文の字句や内容に大きな変更をせずに導入できたのは、倉庫令が管理運営を旨とする実務的内容を制定する篇目であったことに起因すると指摘した。さらに、大宝元年に律令の頒布とともに国司・郡司に対して稲の蓄積に関する勅が出されていることから、日本倉庫令の中心規定は地方に設置された正倉の管理にあったと意義づけた。

 第二章「日唐律令制における倉・蔵・庫―律令国家における収納施設の位置づけ―」では、北宋天聖倉庫令を用い、日唐律令の中にみられる倉庫体系の相違について論じた。唐では穀物を収納する「倉」と器仗などを収納する「庫」の二系統であるのに対し、日本令では「倉」と「蔵」・「庫」の三つからなり、調庸を収納する「蔵」の概念が「庫」から独立して見られることを明らかにした。そして、この日唐における相違の背景として、日本の倉庫制度には収納物の性格がより強く反映されていたことが挙げられると述べた。

 続く第二部「地方社会における倉庫運用の実態的研究」では、第一部での検討をふまえ、法制度に規定された倉庫の管理運用に対して、実際に国郡の倉庫でどのような出納管理体制が敷かれていたのかについて、実務的な側面からの解明を試みた。

  第一章「古代における倉庫の出納業務の実態」では、国郡における倉の出納手順について、木簡などの出土文字資料を用いて具体的な復原を試みた。その際には、国内各地に存在する倉庫の出納をいかにして国郡で帳簿の形にまとめ、正税帳をはじめとする京進文書にまとめ上げたのかという点に着目し、正税帳とともに国郡内で作成されていたと考えられる「倉案」の役割について特に検討した。さらに、韓国の古代木簡から復原される倉庫の出納と帳簿との関係を検討し、中国から古代朝鮮・日本にかけて、東アジアの中での倉庫管理業務の伝播様相の一端を明らかにした。 

 第二章「古代における舂米作業の特徴」では、国郡を通じたイネの収取およびそれに伴う労働作業の一つとして、舂米作業の具体的なあり方について考察した。古代の舂米作業は、従来、国家による余剰労働力の収奪と位置づけられ、その作業形態には、輸納者に舂米作業自体を課す方法と、多量の労働力を投入して、穎稲として集積したものを再出倉して舂米させる方法の二種類が存在し、八世紀後半に前者への統一が図られると指摘されてきた。近年、倉の出納を示す木簡の中に舂米作業に深く関わるものが出土しており、本章ではそれらの資料を手がかりに、両方式による舂米徴収の長所・短所を明らかにし、百姓の舂米作業負担量を再検討したうえで、舂米労働作業を統一した政策的意図の背景を、当該期の国郡から京への雑米未進の問題と関連させて位置づけた。

 第三章「国郡内における米の勘検と輸送」では、国郡内における米の輸送拠点について考察し、どのような作業を経た上で、京進もしくは消費の場へもたらされたのかを検討した。そして、国郡における米の収取には、米長・庸米長などの郡雑任が舂米作業から収取・輸送までの一連の流れに関与していたことを明らかにし、各地への輸送は、郡レベルでの勘検が基点となっていたと指摘した。また、国郡内では、実際には穎稲―稲穀―米の形状が頻繁に換算通計される事例が見られ、柔軟な運用がなされていたことを指摘した。さらに、国内の交通の便に鑑みて輸送ルートが決定され、物資流通の拠点であった津には、搬送のための馬・船とともに倉庫が設置され、それらは津周辺の百姓の負担によって整備されたと想定した。

 第三部「倉庫を通じた地方支配構造の論理」では、古代国家が地方支配を全国的な支配論理のなかでどのように位置づけたのかについて考察した。ここでは、義倉のもつ理念的側面と、軍事経費の調達方法という現実的側面の二つの観点からの位置づけを試みた。

 第一章「義倉の成立とその意義」では、日本と中国にともに見られる飢民救済制度である義倉を通じて、地方支配理念の構築方法を検討した。唐では、州県単位での備荒貯蓄の推進が、そのまま皇帝の徳治を具現化する制度として位置づけられていた。それに対し、日本でも唐の義倉に倣い制度を導入したが、実際には正倉に貯蓄された正税稲穀を財源とする賑給と、義倉として蓄えられた穀物を財源とする義倉賑給の二つのあり方が並存していた。この点について、唐における義倉の本質と日本の二つの賑給のあり方から、正倉・義倉の性格を考察した。日本の律令義倉制度は唐制を模していたものの、飢民救済という義倉の本質を、共同体内における相互救済の性格を持つ原田租に結びつけて引き継がせ、国郡制の枠組みの中で再編したことを明らかにした。そして、令制田租が中央(天皇)に結びつけられて整備される一方で、共同体としての互助機能の制度的整備という必要性から田租による正倉賑給と義倉賑給が並存し得たと結論した。

 第二章「律令財政構造と軍事」では、律令財政の中における軍事費の位置づけについて検討した。日唐における中央財政と地方財政の関係に注目し、唐における軍事財源が全国規模の国家予算の一費目として立てられているのに対し、日本では全国規模の軍事財源を確保する手だてがなく、各国の地方財政から支出されていたことを明らかにした。加えて、日本では財政構造そのものが、中央財政が地方財政に寄りかかる構造を取っていたことを指摘した。そして、中央財政が地方財政をとらえる指標の一つが、正税帳を通じて報告された、地方国郡における不動倉の蓄積状況だったと位置づけた。

 以上、第一部から第三部までの検討をふまえ、終章では、倉庫をめぐる支配論理の形成過程についてまとめた。国郡の正倉が百姓に対して権威や支配の正当性を示す施設として機能するようになるのは、籍帳による人民把握や徴税など、国司を頂点とする地方支配構造が完成することによって成立したと考えた。そしてそれは、官衙としての正倉院の整備や、そこでの国郡司による徴税・出納行為を通じて裏付けられるものであったと指摘した。また一方で、倉庫管理の具体的な方法は、八世紀の段階にはある程度の画一性をもって全国的に広まっていたのであり、ミヤケなどの支配拠点を通じて中央から地方への技術伝播が見られる側面と、各地方における従来の支配体制の整備という側面の二方向から達成されたとした。さらに、こうした古代倉庫による地方支配体制の構築過程は、建造物である倉庫の動産としての基本的性格を前提としていたのであり、権威性を備えた国郡正倉は、これをふまえつつ他の倉庫と差別化されながら形成されたことを指摘した。そして、上記のようにして整備された古代国家における倉庫は、天皇を頂点とする国家的枠組みと、国司を頂点とする国郡内の共同体的機能を受け継ぐ枠組みとの接点として、支配構造の中で位置づけられたと結論した。

 以上各章の検討を通じて、古代において倉庫が果たした役割、及びそれによる地方支配構造の一端を明らかにした。