ヘーゲル哲学の時間論的研究

三重野 清顕

本論文の目的は、時間的諸規定を超越した永遠性の領域と時間性の領域とがどのように関係するかをヘーゲルの論理学に即して考察し、そのことによって、時間論と論理学との調停を試みることである。本論文の基本的な立場は、ヘーゲルが実際に時間について明示的に言及している「自然哲学」の領域においてではなく、かえって非時間的であるとされる「論理学」の領域においてこそ、ヘーゲルは本来的な意味における時間論を展開しているというものである。一般に論理学は、思惟の永遠の規定、必然的なものを扱うとみなされる。それに対して、時間的なことがらは、そのような永遠的な真理の領域から疎外された偶然的なものとみなされがちである。このような対立を、本論文はまず「実体」と「関係」という二つのカテゴリーを通じて考察する。時間論的思考と論理的思考を調停するためには、「実体」と「関係」を峻別しつつ、さらに両者を統一的に把握する途が考えられなければならないように思われる。本論文の第一章では、アリストテレスのカテゴリー論とその古代における受容、そして「三位一体」をめぐる神学的議論における「実体」と「関係」の役割について検討する。

 続けて本論文の第二章は、カントからフィヒテへといたる歴史哲学的思考において、「未規定的な領域の規定」という枠組みが重要な役割をはたしてきたことを示す。まずは、カントによる二種類の否定概念の区別について確認する。カントはさまざまな文脈において、ある領域の「限定」という否定に大きな役割を与えている。このような否定において、カントの「無限判断」に関する議論も基礎づけられている。またマイモンにおいては、未規定なものが関係のうちで限定されることによって、その固有の規定を帯びることになる。そしてマイモンの提示する「規定可能性の原則」は、「規定可能なもの」とその固有の「規定」の必然的結合を保証するものである。本論文では、アリストテレスの「自体性」と比較しつつ、この「規定可能性の原則」の意義について考察を加える。このようなマイモンの枠組みは、さらにフィヒテにおいて自我の自己措定とその限定という形へと移されて継承されることになったが、人間精神の実用的歴史という一種の歴史学的構想はこのような枠組みに基づいている。

シェリングにいたって、この枠組みは「超越論的な過去」という領域への遡行という時間論的な構想へと継承されることになる。シェリングは根源に「自然」を見出したことによって、自我の生成史ばかりでなく、自我の背景に控える客観的世界の成立へと踏み込んで、独自の歴史哲学を形成することとなった。本論文の第三章では、シェリングの時間論的発想の源泉を、この「超越論的な過去」という発想において探ることを試みる。まずは未規定な領域の規定といった枠組みが、シェリングの時間論にどのように継承されているかを確認する。このような道具立てを利用しつつ、シェリングは、「自己意識の歴史」や「超越論的過去」といった概念を形成していることが注目される。続けて、このような時間論的構図のうちで「模倣」にいかなる役割が与えられることになるかを確認する。そこでは自然模倣には、根源的生産性の模倣という意義を与えられることになる。また、シェリングにおける浄化へと向かう歴史観を明らかにする。このような歴史観は、のちに人間や神の自由を考察する際の枠組みを提供することになったが、本論文はおもに『自由論』に基づきつつ、このような枠組みが人間の悪への自由を考察する文脈へとどのように置き換えられているかを確認する。そこにもやはり時間を超越した過去というような時間のありかたが前提されているように思われる。最終的には、シェリングにおいて「未規定なものを規定にもたらす」という枠組みが一貫して大きな役割を果たしていることを確認し、そういった枠組みの歴史哲学の領域における展開を考察する。

続く本論文の後半部では、ヘーゲルにおける時間論的思考の展開を検討する。第四章においては、ヘーゲルにおける「過去」の超越性について、シェリングの時間論と比較しつつ考察する。その本来的なありさまで考えるならば、過去は「今」の連続に回収されることなく、時間一般を超越するものでなければならないように思われる。そして、このような時間を超越するような「過去」が、時間と交渉することを可能とする契機が、「想起」と「因果性」のうちに認められることになる。自然的な時間を克服し、時間的なものがそのうちへと沈み込む実体的統一を自由に時間化することによって想起が成立する。また同様に因果性の運動のうちで、相互外在的なものはひとつの実体的統一へと回復されることになる。このような運動の結果として、内面性を徹底することによってかえって外面性が、そして必然性を徹底することによってかえって偶然性が現れてくることが示される。

さらに本論文の第五章では、おもに『精神現象学』の読解をとおして、ヘーゲルにおける時間のさまざまな位置づけについて確認される。「概念」としての時間の動性(時間の肯定的側面)、外面性としての時間(時間の否定的側面)、時間における脱自的構造、「想起」による時間の外在性の克服といった時間論的主題を確認したのちに、絶対知章における「精神の時間」の生成について検討する。これらの成果に基づいて、共同性の創出において、時間がどのように具体的に機能しているかが確認される。ちょうどキリスト教において、イエスの死によって普遍的な教団が創設されるように、自然的な時間の経過それ自身によって、自然を超えた共同性を生みだされることになるのである。

本論文の第六章では、すでに確認されたヘーゲルの時間論的思考を支えている基本的な論理的構造を、ヘーゲルの「反省論」のうちに確認する。まずはヘーゲルにおける「反省」論の展開を発展史的に概観し、「それ自身の他者」としての無限性を記述する反省規定の論理的構造の原型をあきらかにする。続いて『論理学』の「本質論」における反省規定論のうちに、「実体」と「関係」を統合するような構造を見出すことになる。事物にとって疎遠な対他関係を克服し、内在化するという課題を遂行するのが、この「反省論」にほかならない。このような構造によって、伝統的に事物の間の外的な比較に存するとされた諸規定を、事物の内在的規定として考察することが可能となった。逆に、通常関係が事物の外部で結ばれるものとして、それゆえに事物にとって疎遠なものとして考えられるとすれば、事物の本質にこのような外的で疎遠なものが入り込むことは避けられないことになるのである。

こうして本論文の最終的な結論は、思惟の永遠性・必然性・完結性の達成は、時間性・偶然性・非完結性を伴わずにはありえないということである。しかもそれは、一方が他方にただ付随するといった仕方で伴うのではなく、一方を徹底するとそのまま他方へと反転するというような仕方で結びついている。そういった意味で永遠性は、つねに時間的規定を必要とすることになる。論理的なものが、あらかじめそのうちに内在している諸関係をただ時間のうちに模写するのでなく、また無秩序に与えられた諸差異を恣意的に関係づけるのでもなく、みずから諸関係を創出し展開してゆくところにこそあるのだとすれば、論理学はまさしく時間論として考えられなければならないように思われるのである。

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