近代オスマン帝国における教育改革―教育行政と学校教育―

長谷部 圭彦

 18世紀以降のオスマン帝国(ca.1300-1922)は、その後の中国や日本などと同様に、「近代西欧」およびロシアによる植民地化こそ免れたが、政治的独立を維持すべく、まさにその「近代西欧」に学ぶことによって、それに対抗し得る力を得ようとした。部分的には18世紀初頭に始まったそのような試みは、セリム3世(在位1789-1807)およびマフムート2世(在位1808-39)によって格段に体系化された。そしてマフムートの死の直後に公布されたギュルハネ勅令(1839)によってさらに加速し、憲法の公布(1876)まで続くタンズィマート改革のなかで、軍事分野のみならず、政治・外交・法律・行政・経済・文化など、オスマン社会のあらゆる分野において、さらに体系的に進展することとなった。
 こうした改革の重要な一領域をなしたのが、教育であった。教育改革は、一方では、「近代西欧」で生み出された新しい知識を摂取するために、他方では、新しい知識を身に付けた新しい人材を確保するためにも、必須の試みであった。同時に、それは、帝国の臣民全体のマンパワーを質的に向上させるためにも必要であり、また、多様な構成要素からなるオスマン社会を、民族主義としてのナショナリズムの衝撃に抗して再統合をはかるうえでも、極めて重要な意味を有していた。
 本研究は、このような重要性を有するオスマン帝国の教育改革を、刊行・未刊行のオスマン語一次史料に基づいて、教育行政(第1部)と学校教育制度(第2部)の両側面から考察したものである。まず第1章では、オスマン帝国の近代教育史を扱った研究を概観し、本研究は、比較史的・世界史的な観点を重視する近年の研究から刺激を受けつつも、刊行史料と未刊行史料をともに用いて従来の通説を訂正しつつ、タンズィマート期の教育改革に関する諸問題を再検討するという、本研究の学説史上の位置を明確にした。
 第1部の冒頭にあたる第2章では、タンズィマート期の教育改革のうち、それを推進したいくつかの審議会の機能と構成員を検討した。1845年に設置された臨時教育審議会は、オスマン政府を構成する3つのグループであるウレマー・書記・軍人から委員と書記が選出され、官立学校の三段階制と常設の教育審議会の設置を建議した。それに基づいて設置された公教育審議会(1846)は、官立学校の監督など、日常的な教育行政を執り行っていた。改革勅令(1856)が公布されてムスリムと非ムスリムの法的な平等が明示されると、新たに公教育省(1857)と混成教育審議会(1857)が設置された。ムスリムの議長のもと、非ムスリムの各宗教共同体の代表から構成された混成教育審議会の実態は詳らかにし得なかったが、それが廃止されると、その構成員のうち数名は、公教育審議会の委員に任じられた。
 1868年、大宰相の諮問機関である最高評議会の後身として、新たに国家評議会が設置されると、その一部局として教育局が設けられた。部局としての位置付けは必ずしも高くはなかったが、国政の中枢機関において教育を専門に扱う審議会が設置された意義は大きい。
 この教育局において起草されたのが、オスマン帝国唯一の体系的かつ包括的な教育行政法である公教育法(1869)であった。第3章では、同法の制定過程と規定内容を検討したうえで、教育局において公教育法の起草にあたった人物たちの経歴を検討した。その結果、公教育法は、同法の規定からも、教育局の構成員の経歴からも、それまでの教育改革の集大成と言い得ることが明らかになった。公教育法の意義は、それまで場当たり的になされていた改革を、体系的かつ包括的に法として整備するとともに、その後の教育制度の整備方針を示したところにあると言えよう。
 また、教育局の構成員に関する通説を訂正し、それまで中央および地方において教育改革に従事してきた人物が、局内はもちろん局外からも参加していたこと、通説とは異なり高位のウレマー2名が委員に任じられていたこと、非ムスリムの代表もバランスよく配置されていたことなどを、国際的に見ても初めて明らかにした。
 教育関連の諸審議会と教育行政法を扱った第1部の成果を承けて、第2部では、初等・中等・高等の各教育段階における教育改革について検討した。
 初等教育を扱う第4章では、当該段階における最重要の課題である義務教育について、その法制化過程を中心に検討した。また、義務教育制度の導入に際して用いられた正当化の根拠も探った。まず、従来の研究において義務教育制度の淵源として位置づけられていたマフムート2世の勅令(1824)は、就学義務を規定しているのではなく、就業資格に関するものであること、そして義務教育に関する最初の法的史料である「公共事業審議会の意見書」(1839)も、制度の導入過程における萌芽と位置付けられるものの、それによって義務教育が法的に規定されたわけではなかったことを論じた。
 そのうえで、部分的にせよ法制化が初めてなされたのは、罰則を伴う形で就学義務を規定した「初等教育に関する通達」(1847)であり、この通達の実現に向けて相応の努力がなされ、補遺(1864)も制定されたこと、続く小学校改革法(1868)によって無償制が規定され、公教育法(1869)によって学校設置義務も規定され、ここに、学校設置義務、就学義務、就学保証義務という「義務教育の三要件」すべてが満たされたこと、以上の過程を経て、憲法(1876)においても初等教育の義務制が明記されたことを論じた。また、制度の導入にあたって国家評議会教育局が用いた根拠は、「文明諸国」における実施、政府の父権的立場、「祖国の子ども」としての臣民の子弟という3点であったことを、国際的に見ても初めて明らかにした。
 中等教育を論じる第5章では、中等教育としてはやや特殊な事例ではあるが、第二帝政期のフランス(1852-70)とも密接な関係を有し、現在もトルコ有数の名門校として知られるガラタサライ高校として存続している帝室学校(1868)を取りあげて、その設立過程を中心に検討した。
 まず、パリに設置されたオスマン学校(1857-65)の開校と閉鎖から、帝室学校の開校に至るまでの経緯を検討し、帝室学校の設立は、オスマン学校の廃止に始まり、66年5月に開かれた、フランスの公教育大臣、オスマン帝国の公教育大臣および駐仏大使による三者会談を経て、67年2月のフランスからの通牒によって加速したと見るべきであること、そしてフランスの公教育大臣は、「フランスのコレージュ」をイスタンブルのみならず東地中海一帯に設立しようとしていたことなどを指摘した。そのうえで、このフランスの公教育大臣は、帝室学校を、自身が考案した専門的中等教育に「相当するようなもの」と捉えていたこと、ただし帝室学校と専門的中等教育は、講義科目こそ相当程度共通していたが、学校体系上の位置はかなり異なっていたこと、フランスからの通牒は、単なる改革勧告ではなく、「教育外交政策」の一環として理解すべきであることなども論じた。
 第6章では、第7章で扱う「諸学の館」が臨時教育審議会によって構想される直前に、同審議会によって建議された「諸学の学校」について検討した。同校は勅旨まで発せられながら実際には設立されなかったため、従来の研究ではまったく言及されていなかったが、本研究は、その性格とオスマン教育史上における位置を国際的にも初めて明らかした。
 「諸学の学校」の言わば隠された目的は、キリスト教徒が「至高なる政府に反する一連の不適切な事々」を身に付けないように、それを「間接的に防止」することにあったが、この「不適切な事々」は、急進的な「民族意識」や「自由主義」を指しているように思われることを、当時の国内外の情勢を踏まえて論証した。また、「諸学の学校」と「諸学の館」は、教育の内容、水準、目的、そして名称の点で大いに共通しているため、後にイスタンブル大学に改組されることになる「諸学の館」は、「諸学の学校」の設立計画を念頭に置いて構想された可能性が極めて高いことも指摘した。
 その「諸学の館」を論じた第7章では、設立が決定された1845年から、紆余曲折を経て1900年に幾度目かの開校を迎えるまでの同校の歩みを辿った。また、同校と関係の深かったいくつかの高等専門学校について概観した。その結果、「諸学の館」は、早くも臨時教育審議会によってその設立が計画されたにもかかわらず、実に半世紀以上にわたって継続的な教育をなし得なかったこと、それにもかかわらず、あるいはそうであるが故に、オスマン政府は「諸学の館」の設立に固執したこと、その原因の一つは、非ムスリムの留学防止という「諸学の学校」以来の同校の目的にあると考えられること、さらには、法学校や医学校など必要に応じて設立された高等専門学校が別に存在し、相当程度機能していたからこそ、「諸学の館」は長らく不在のままであったとも考え得ることなどを指摘した。
 オスマン帝国のタンズィマート期における教育改革は、本研究によって、従来にない精度で体系的に明らかにされたと考えられる。また、その過程において、通説の多くを修正し得た。本研究の成果は、オスマン史研究およびトルコ近代史研究のみならず、中東・イスラーム地域研究にとっても、また、広く非西欧諸社会における「近代化」改革を扱う諸研究にとっても有益であろう。さらに言えば、教育学における教育史や比較教育学の分野においても、示唆に富む一例を提示し得たものと考える。

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