国家も郷土も失ったディアスポラ(離散)の「ユダヤ人」は、いかにして今日まで幾つもの文明や王朝の盛衰の中を生き残ってきたのであろうか。この疑問に対しては、A.J.トインビー(1889~1975)が「ユダヤ・モデル」を提唱している。「ユダヤ・モデル」は、領土を持たず、宗教的紐帯によってのみ統合がなされ、世界中にその民族が点在しているような社会集団の型を指す。トインビーは、領土と国家を必ずしも必要とせず「水平的」に限りなく広がりうる社会構造を持つ、「離散共同体」の創造的な意味に着眼して、歴史上の「ユダヤ・モデル」を人類史の行方を問う「未来の波」として重視している。しかし、S.D.ゴイテイン(1900~85)に依れば、未来を待たずとも既に中世において、イスラーム世界のユダヤ教徒がネットワーク社会の下で多数派のムスリムと平和裏に共生していたという。そこで本稿では、変革期を迎えた10・11世紀の中世イスラーム世界において、ユダヤ教徒が如何なる生き残りのための戦術ないし戦略を実行したかについて明らかにする。

 第一章では、古くからの伝統を誇るバビロニアのラビ・ユダヤ教中央集権体制について概観し、10世紀以降この体制が衰退する原因について、バビロニアのユダヤ教社会にとっての外的要因と内的要因から明らかにする。外的要因の具体的例として挙げられるのが、バビロニアのユダヤ教社会を包含していたアッバース朝の衰退である。イスラ-ム世界に及ぼし得るアッバ-ス朝カリフ権力の衰退と、それに伴うイスラ-ム世界内における独立政権の乱立の影響を受けて、カリフ権力は早くも 9世紀末からその権限や影響力が及びうる範囲の縮小化が始まり、その保護下にあったラビ・ユダヤ教中央集権体制もその影響を免れなかった。次に内的要因としては、ラビ・ユダヤ教の口伝律法重視に反対して分裂したカライ派との争いである。ラビ・ユダヤ教は、何世紀にもわたってカライ派との間で激しい論争を展開することになり、長期間にわたって多くの信徒をカライ派に奪われることとなる。また、それまでの、血統に基づく権威に代わってこの頃から活躍し始めたユダヤ教徒のジャフバズ(宮廷銀行家)について、ユダヤ教社会における役割のみならず、イスラーム王朝との関わりにおける彼らの実力を確認した。

 第二章では、衰退するバグダードを中心とする東イスラーム圏に代わって、台頭するアンダルス、マグリブやエジプトなどにおけるユダヤ教社会の様子について、ホスト社会であるイスラーム世界との関係に留意しながら考察した。これら地中海沿岸地域では、10世紀以降アッバース朝カリフに対抗してカリフを称したファーティマ朝や後ウマイヤ朝の下で通商活動が活発化し、成功を夢見て東イスラーム圏から移住してきた大量の移住者の受け入れ先となった。この移住者のなかには、ムスリムのみならず、多くのユダヤ教徒が含まれていた。また本章では、地中海での通商活動で盛んに用いられた公式及び非公式な協同事業について具体例を交えて確認した。更に、ここでは、イスラームによる征服以前にビザンツ帝国領であった地域に存在したユダヤ教社会に対して、一定の影響力を保持していた、パレスチナのイェシヴァ(学塾)についても確認した。

 第三章の前半では、アッバース朝に強い対抗意識を持っていたファーティマ朝が10世紀後半にエジプトを征服して首都をマグリブから新都カイロに移すに及び、東西から移住者を集め、エジプトをイスラーム世界の新しい中心とするために尽力した元ユダヤ教徒の宰相ヤアクーブ・イブン・キッリスの活動について考察した。キッリスは元々バグダード出身であり、政治・経済・文化等あらゆる面でエジプトをイラクに代わるイスラーム世界の新しい中心地とする政策を実行するにあたり、地中海沿岸に基盤を据えていたユダヤ教徒の有力な商人達の支援が存在したのではないかと考え易い。しかし、キッリスは、ムスリムの宰相としての立場から決してユダヤ教徒のみを優遇することは無く、その政策の主眼はあくまでも様々な勢力を可能な限り満足させることを目指すもので、そうした勢力の一つとしてユダヤ教を看做し、諸勢力の利益を保証する見返りとしてその支援を取り付けていたことが伺えた。従ってキッリスに対するカリフを始めとする政府高官や帝国民の評価はすこぶる高く、キッリスの死に際しては帝国中の人々が悲しんだという。
 ところで、ファーティマ朝は、元々ズィンミー(庇護民)に対して寛容な政策をとっていたが、エジプト征服後もその政策は継続され、多くのユダヤ教徒やキリスト教徒が政府の重要な地位に就いた。しかし、11世紀に入ると、カリフ=ハーキムによって突然ズィンミー迫害が行われ、10年以上にわたって断続的にズィンミーへの強制改宗や追放、教会やシナゴーグの破壊等が実施された。これを受けて、ユダヤ教徒の有力者達が人生の最も重要な使命と考えていたのは、帰属する王朝や宗派の別を超えてエジプト周辺のユダヤ教社会を支援することであったと推察される。彼らは、イスラームの宮廷内で占める自らの地位や立場を利用して同胞の救済や支援のために尽力した。このようにユダヤ教徒の有力者達は、共同体やユダヤ教社会全体の中で自分自身が指導者として果たすべき役割を常に意識するこうした使命感に支えられて、自らの利益のみならず同胞の福祉にも配慮していた。本章後半では、こうしたユダヤ教徒の代表としてアブー・サアド・アットゥスタリーの活動について考察した。

 第四章では、11世紀の地中海沿岸で活躍したユダヤ商人について、その家系図に基づき、アンダルス・マグリブ・エジプト等に広がる婚姻を介したネットワークについて明らかにした。本来本章の目的は、第三章において各地の有力なユダヤ商人が、ファーティマ朝政府のキッリスを支援していたことを裏付けることにあったため、考察する商人も10世紀後半の人物であることが本来望ましい。しかし、イスラーム側のアラビア語史料にも、ユダヤ側のゲニザ文書にも10世紀の情報を含むものは殆ど存在しない。そこで、本章では、次善の策として11世紀初頭から同世紀末までの史料に基づき、各地のユダヤ商人の相互扶助に立脚したネットワークが如何に地中海各地に広く及んでいたか、そしてそのネットワークを利用して彼らがいかに大規模に通商活動を営んでいたかを明らかにした。

 第五章では、イエメンのユダヤ教徒について考察した。イエメンは、10世紀後半以降ファーティマ朝がエジプトを征服し、その下で紅海を経て地中海とインド洋を結ぶ交易路が重要視されるようになると、中継地点となるイエメン、特にアデンが俄かに活気を呈するようになった。しかし、ゲニザ文書によれば、ユダヤ教徒の商人が地中海からイエメンに拠点を移し始めるのは、記録が残る11世紀末以降である。しかし、これ以後、有力なユダヤ教徒が通商全般について取り仕切る「商人代表」として活躍するようになった。そして、アンダルスやマグリブの有力なユダヤ教徒がそうであったように、イエメンのユダヤ教徒もイラクのイェシヴァやエジプトのマイモニデスに大量の献金をして財政支援をしていた。ところが、12世紀半ばを過ぎた頃、シーア派のムスリム勢力がイエメンの支配権を掌握し、版図内のユダヤ教徒にイスラームへの強制改宗または追放を迫った。ユダヤ教徒の大衆は絶望感からメシア運動へと参加し、事態の収拾に腐心したイエメン(サヌア)のユダヤ教徒の指導者がエジプトのマイモニデスに意見をもとめる書状を送った。マイモニデスは、これに対してイスラームからの迫害とユダヤ教徒の民衆のメシア運動への対処法を示した一連の書簡(『イエメンへの書簡』)を送って事態の収拾に努めた。

 本稿では、「ユダヤ教徒による生き残り戦略」という点に着目してユダヤ教社会を捉えることとし、具体的には中世エジプトのユダヤ教指導者の活動を中心にイスラーム支配下の主だったユダヤ教社会を考察することがその主眼であった。今回の考察の結果、ユダヤ教社会はイスラ-ム世界の変化に対応しながら巧みに変化していたことがはっきりと確認できた。このように、イスラーム世界の至る所に分散して居住していたユダヤ教徒は、各地に存在していた彼らの共同体のお陰で、彼らの共同体を含むホスト社会の秩序が極端に悪化したり、彼らの経済活動にとって不都合な諸条件が生じた際に、すぐに各地の別の共同体へと移住して、より有利な条件で商業活動を行うことが出来たのである。実際、各地のユダヤ教共同体を頻繁に移動して活躍したユダヤ商人の例は枚挙に暇が無い。また、経済的に繁栄している地域に居住するユダヤ教徒が、各地の同胞、特に学問の中心を政治的・経済的に支援する例が幾つも確認された。これらの特徴は、常にリスクを分散して生命や財産、ひいては自民族とその信仰の保持を計ろうとする、イスラーム世界におけるユダヤ教徒にとっての一種の「生き残り戦略」であったと思われる。