維新期国学者の思想史的研究

三ツ松 誠

 本論文は、維新変革の前後で、宣長学そして篤胤学の思想的特質がどんな役割を果たしたのか、当該期の国学者達の置かれた状況に即して明らかにしていくことを課題とする。いずれも日本の古代を理想世界として設定しながらも、片や歌文研究を重視し、片や霊魂論を重視する、二つの国学の流れの思想的相違が、近世後期に如何なるものとして機能し、それが王政復古という彼らにとっての理想に合致するかに見える政治的変動の前後でどう社会的機能を変容させ、明治国家にそれぞれ何を残しえたのか/残しえなかったのかを、同時代に相互に交渉を持った彼らの社会的布置状況と精神世界を同時に視野に入れて、明らかにすることが目指される。
 予め述べておけばその作業は、平田派のスピリチュアルな世界観が、現存する幕藩制的秩序を相対化し、対外危機の下で政治運動に身を投じる主体を励ました点を強調するとともに、本居派国学の中に見られる現存秩序の肯定と考証能力とが、教化的役割を含む、ある種の実用性を持ったものとして機能したことに注目するものである。
 以下、総体として三部から成る本論文の構成と概要を述べる。
 第一部「身分制社会における国学」は、近世身分社会のなかにあって、国学者が如何なる者として存在し、社会的位置が如何に彼らの思想的営為を規定したのかを、描き出すことを狙いとする。
 第一章「学者と講釈師のあいだ――平田篤胤『霊能真柱』における安心論の射程――」は、国学の救済論化を果たした講説家でもなく、日本における国民国家形成の理論家でもなく、巨大都市社会のなかで己の学説の承認を求めて様々な努力を重ねた一人の周縁的知識人としての、篤胤の等身大の姿を明らかにしようとしたものである。
 第二章「「諏訪」という思想――平田門人松沢義章の世界――」は、諏訪出身の行商人であった平田門人松沢義章による、諏訪の神々を皇祖神と同等以上に高く評価するという、彼の生活世界に相即した独自のコスモロジーを明らかにすることで、彼を先駆者とする国学尊王論の順調な発展を説いた戦前以来の図式に異議を唱えるとともに、地域主義的な復古意識が必ずしも天皇と地域を直結させる方向には進まなかったこと、平田国学にとって中国的世界像からの完全な離脱が極めて困難だったことを、示したものである。
 第三章「参沢明とは誰か」は、幽界との交渉を主張した独自の作品を著した紀州藩の平田門人参沢明に関する基礎的事実を紀州藩政史との関わりの中で明らかにすることで、以後の章の理解の前提となる知識を提示するとともに、本居派と平田派とを同時代に関係を取り結んだ存在として複合的に、かつ社会史的に、理解していくことの意義を示唆した。
 第四章「内遠期の本居学――学校構想を軸に――」も、紀州藩の規定性を重視して国学者を論じたものである。研究が手薄でこれまで歌文派との位置付けが主流であった後期鈴門について問い直すべく、本居内遠の門人集団運営と紀州藩における国学教育の公定化に関する歴史的経緯の分析を通して、幕末の本居派国学の道徳国学化の傾向を、内遠と他の国学者との文化的・社会的関係や、身分制社会における国学者の社会的公認要求から説明し、全集所収翻刻史料の再検討をも踏まえて、近代国学との関係を展望した。
 身分制的社会編成の下で、本来公的に位置を認められることがなかった国学者たちのうち、ある者らは疎外の中で自己の生に意味を付与する独自のコスモロジーを育む一方、ある者らはその学問的営為を通じて公的な承認を求めることになっていくのである。 
 このように身分制社会の刻印を色濃く受けた国学が、如何にしてこれを乗り越えていくことになるのか、その思想的契機に注目しながら論じるのが、第二部「幕末国学の転回」になる。
 第五章「予言の大軍――嘉永期の気吹舎をめぐる一考察――」は、参沢明の描いた幽界との交流記録「幽界物語」を如何に篤胤の後継者たる平田銕胤が受容したかを分析し、嘉永期の気吹舎経営の実態とその変化を、幽冥観を軸に描き出すとともに、ペリー来航に伴い「幽界物語」のみならず「武威」を示しえなかった幕府へも銕胤が疑念を抱くようになったことを明らかにし、その後の気吹舎の政治情報ネットワーク化を見通したものである。
 同様の素材を扱った第六章「「幽界物語」の波紋」では、「幽界物語」に対する各地の平田門人の反応を紹介した。そして、銕胤がペリー来航に関する予言の失敗を通して「幽界物語」への信を失う一方、民俗的な興味の強い門人の間では、生活世界と結びついた「幽界」への期待・願望がすぐに無くなるわけではなかったことを明らかにして、スピリチュアルなものに憑代を求める民衆の願望の根強さを描き出そうとした。
 第七章「若き三輪田元綱」は、尊攘志士として有名な三輪田元綱と、民俗学的な平田国学像の代名詞ともいうべき仙童寅吉との関係を明らかにして、平田国学のスピリチュアルな部分が政治運動とは無関係なものだとする見解が誤りであり、対外危機を眼前にした主体を鼓舞するものでもあったことを主張した。あわせて、足利三代木像梟首事件に至る三輪田元綱の足跡を再構成した。
 かかる尊王攘夷運動の理論的源泉の一つに平田国学があったことは、教科書レヴェルの事実として認められていながら、国学が幕政否定に転じる過程を思想史的に明らかにした研究は意外に少ない。そこで第八章「「みよさし」論の再検討」では、本来幕藩制国家を――あるがままならざる形で――正統化するものであった国学者の「みよさし」論が、幕末の政治状況の変化の中で諸ヴァリアントの対抗関係を生み出し、最終的に王政復古を正統化するものへと変化する過程を、既存の研究が手薄な部分を中心に、政局史や書誌学的検討を説明材料にしながら、跡付けた。その過程で「みよさし」論における、志士の政治関与を正当化する一君万民論的方向性と、草莽の国学に典型的な職分奉公論的方向性とが、矛盾しうることを主張した。
 以上、幕末までに準備された国学的諸範疇が、内外の危機の中で様々な形でその機能を発揮したこと、とりわけ、現存する社会秩序を相対化する引照基準となり、政治的行動をコスモロジカルに勇気付けるものとしてその機能を変えた様を描き出そうと努めた。
 かくして実現を見た「復古」であったが、それは平田門人たちが幻視したものと一致するものではなかった。彼らを勇気づけたスピリチュアルなものがむしろ桎梏となって彼らの挫折に伴っていたこと、他方でかかるスピリチュアルなものの否定の上で本居派の流れをも汲む近代国学が近代国民国家の国家統合において役割を果たしていったことを示そうとしたのが、第三部「王政復古と国学者」になる。
 新政府内部の方向対立の中、攘夷主義的主張の後退・中央集権的諸政策によって平田派たちは不満を高めており、周囲との衝突を繰り返していた。そんな中、神々の名の下に、政府の方向性を批判する噂が流れる。第九章「神々は沈黙せず――「神霊事件」前後の平田直門の動向――」では、神々の集議が攘夷を決定したとする噂や、神々と連絡を取れる少女、春の御告げに期待を向けた、矢野玄道や角田忠行、三輪田元綱らの動向を明らかにして、失脚前夜の平田門人らの精神史的位相を明らかにした。
 他方、平田派に対して終始批判的な目を向けていた、紀州藩で修業を積んだ歌文派国学者、飯田年平は、新政府の祭祀担当部局で重要な位置を占め、近代天皇制国家のイデオロギー諸装置の中核部分で役割を果たしていくことになる。第十章「「国典」・「国教」・「国体」――祭・政・教をめぐる飯田年平の思想――」では、ナショナル・アイデンティティの確立のためにはスピリチュアルな基礎付けが不可欠だと説いた平田篤胤の所説と全き対立を見せる年平の国学思想の分析を通して、近代日本の祭政教関係に本居と平田の国学が残したものを考える材料にした。
 終章「裏切られた「御復古」」では、三輪田元綱の維新後の足跡を描くことで、新政府と津和野派の動向に対立した平田派の理想の挫折を明らかにし、復古神道的スピリチュアリズムに込められたユートピア主義的性格の行方について展望した。
 以上の議論を通じて、いささかでも、本居派と平田派における古代の理想視が、近代日本の形成過程において如何なる機能を果たしたのかを考える材料を提示することができていれば、それを通じて秩序と変革をめぐる問題系に介入する手掛かりを残せていれば、本論文の目的は達成されたものと考える。

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