本研究は、中世初頭の歌人・散文作者であった鴨長明について、彼がいかなる意図の下に作品を生み出し、何を実現しようとしたかを考察し、その文学史的意義を解き明かすものである。全体は、歌論的随筆である『無名抄』を取り上げた第一部、和歌作品を論じた第二部、長明の著作を含めた様々な作品から同時代における表現の様相を考察する第三部から成る。以下に、各部の論旨を略述する。

 

 

 

鴨長明についての先行研究は、『方丈記』『発心集』の作品研究と伝記研究に重きを置く傾向が強い。しかし、長明はその一生を歌人として過ごし、新古今和歌集撰集を行う和歌所の寄人でもあった人物である。長明にとって、歌人たることは重要なアイデンティティーであったと断言してよい。従って、歌論的随筆であり韻文と散文の両性質を併せ持つ『無名抄』を、長明の文学活動の本質を端的に体現する作品と位置づけ、関連する諸論考を第一部に置いた。第一章では、体系だった伝本研究が行われていない『無名抄』について、主要な写本と板本を調査し、その系統と成立を明らかにした。全体では19本を対象として調査を行い、諸本を三つの系統に大別した。一・二類は古写本系統、三類は一・二類の混淆態本文の系統である。三類本はさらに一~四群に分類できる。また、鎌倉期に遡る古写本である東京国立博物館蔵梅沢記念館旧蔵本(一類本)と天理図書館蔵呉文炳氏旧蔵本(二類本)については、前者に古態性が強いことを確認した。これらの調査・分析によって、『無名抄』をより信頼性の高い本文で読解することが可能になった。なお、本文全体の異同を確認した15本については校本を作成、『校本無名抄』として一冊にまとめ、別冊資料として付している。

 第二章では、長明の体験談かつ自讃譚である「セミノヲカハノ事」の章段についての検討から、歌語におけるプライオリティーが自らの栄誉に直結する長明の傾向を明らかにした。さらに、作品中かなりの割合を占めるこのような体験談が、先行研究の視点やプロットを吸収して様々に演出を施された物語(虚構)という様相を呈すること、そのような執筆行為の意図が物語の中で「望むべき自己」を実現する「物語としての自己実現」であったことを考察し、長明研究において等閑視されがちだった『無名抄』を長明理解の重要な鍵として位置づけている。

 第三章では、作品中最も長大な章段である「式部赤染勝劣事」「近代歌躰事」を取り上げる。二章段がともに先行する歌論書・歌学書に典型的な文体を採ることを考えると、この二章段は長明が「良き歌」とは何かを問い、先人の言や自らの体験をもとに意識的に自説を展開したものとの枠組みが得られる。「式部赤染勝劣事」では比喩の用い方に着目し、分析的認識と統合的感得という、歌についての同時代の二つの認識を見出した。さらに、長明は二者を択一せず、「詠作時の心の働き」と「歌としての価値」という二つの次元に分けて両立を図ったことを明らかにした。続いて「近代歌躰」では、長明の意図は中古の歌風と新風との対立の解消にあることを読み取る。それを可能にしたのは二者を古今集の下に位置づける方法であり、その重要な鍵が「幽玄」であった。「幽玄」は新風の出自が古今集であることを導く道標となり、さらにそれが冠せられた「月やあらぬ…」の業平詠を媒介として、俊恵の説(中古の歌風)と俊成の説(新風)とを結ぶ蝶つがいの役割を果たしている。この二つの機能を持たされ意識的に用いられた「幽玄」は、まさに立論の要であった。また、このような自説の展開が、鎌倉での源実朝との会見を動機とする可能性にも言及する。この考察を通して、同時代に対立的に捉えられていた二つの見方・歌風を両立させようとする長明の歌観を明らかにし、『無名抄』執筆動機の一面を解明した。

 

 

 

 第二部は、長明の和歌作品を分析し、その表現や構想の様相を明らかにするものである。

 長明の和歌の師は金葉和歌集の撰者源俊頼の息・俊恵であり、俊恵の自坊・歌林苑には多くの歌人が集って歌会や歌合を行っていた。長明は二十代の後半には俊恵に師事し、歌林苑にも出入りしている。このような背景を踏まえ、第一章では、長明の和歌体験の始発期に重要な役割を果たした俊恵と歌林苑について、特に源俊頼の影響という観点から考察した。俊頼の和歌の大きな特徴に、新奇な表現や趣向といったものがあるが、俊恵がその独自性を十分に享受して自らの和歌に活かしていたことが家集『林葉集』の歌に窺われる。また、俊頼が生み出した新しい趣向を、俊恵や歌林苑歌人たち─長明を含む─が共通して和歌に詠み込んでおり、歌林苑という場において、俊頼が歌作の場の精神的紐帯となっていた可能性を指摘した。

 長明が歌人として表舞台に立ったのは、正治二年、四六歳の時である。第二章では、正治二年冬に詠進された後鳥羽院の第二度百首こそが、長明が和歌所寄人に登用され、歌壇の構成員となるに至った最大の階梯だったと考え、その構想を解明する。当該百首は晴の応制百首にもかかわらず多くの述懐歌を含むという特徴を持つ。その表現分析によって、長明は「不遇なる山住みの閑人」という作中主体を仕立て、そこに自らを投影する表現方法を採っていることが明らかになった。長明は、不遇なる自己が後鳥羽院の恩寵によって救われ、和歌所寄人として登用されるというストーリーを百首中で展開し、零落者を拾い上げる趣味を持つ後鳥羽院の嗜好に訴えたのであり、その構想は後に和歌所の開闔となる源家長によってもたらされた可能性が高い。以上の論証により、和歌における長明の構想と表現、そして新古今集成立前夜の歌壇の様相の一端を浮かび上がらせることができた。

 第三章では、長明の代表歌「夜もすがら一人み山の真木の葉にくもるもすめる有明の月」(新古今集・雑上・1523)を取り上げる。まず、古注釈以来紛糾する第四句の解釈について、同一主体である「月」に「くもる」と「すめる」という矛盾する現象が同時に起こっているものだと考え、表現の背景として、「法華経」寿量品の「常在霊鷲山」「常住」の思想と、それを詠み込む釈教歌の歴史の存在を指摘した。また、当該歌は、河合社禰宜事件による長明の出奔を語る『源家長日記』(以下『日記』)で大きく取り上げられるが、『日記』は当該歌を長明出奔の予言歌として場面を構成している。当人の和歌が実人生を予言するという論理は、当時、広く共有されており、長明もその方向性の下に、河合社禰宜事件を予言歌の物語に仕立てたのだった。それは、後鳥羽院の朝恩による臣下の幸いという因果関係の破綻を埋めるための論理を必要とする『日記』の思惑と一致するものであり、このような経緯から『日記』の長明譚は構想・執筆され、当該歌は長明の人生を象徴する代表歌の地位を獲得したのだと思われる。このことによって、文学史上の長明像の形成過程の一端が明らかになった。

 

 

 

第三部では、表現が生み出され展開する様相を、長明以外の作品にも対象を広げて考察する。

第一章では、院政期から鎌倉初頭に特徴的に見られる、世俗的価値観を超越した物事への愛好精神である「数寄」という概念に着目した。長明は後世、「数寄者」とされた人物であると同時に、『無名抄』『発心集』に数多くの数寄者説話を収め、「数寄」を仏教的に意味付けて概念化を行っている。まず、『無名抄』における語の使用法を分析し、長明の「数寄」が同時代の一つの潮流であった実地見聞への志向と大きく連動し、その志向が、いかに目的地に辿り着くかという視点に沿った実地的表現を生み出したことを解明した。また、『発心集』の数寄者説話と『方丈記』の表現にも如上の様相が表れることを見出し、長明の思想的見地を考察するには三作品を総合的に検討する必要性を指摘、作品研究に新しい視点と可能性を与えた。

第二章では、第一部第二章や第三部第一章でも取り上げた歌語をテーマとし、歌語が共通の類型を持つことで混同され変遷する様相を追った。前半では忘草忍草同一説を扱い、従来、混同の証拠とされてきた伊勢大輔の歌が玉葉和歌集撰者京極為兼による改変の可能性が高いことを指摘した。両者が混同された時期は院政期まで下り、その屈折点には源俊頼の金葉和歌集入集歌がある。後半では、ことなし草忍草同一説を取り上げる。まず、平安時代から江戸時代にかけて「ことなし草」の変遷を追い、この語が持つ豊かで機知的なイメージを解き明かした。続いて、同一説が普遍的なものではなく、源氏物語古註釈という特定の言説空間で生み出されたことを指摘し、言葉の持つ意味とそれが享受される空間の関係という視点を提示している。

第三章では、大原三寂の一人であった寂然の『法門百首』に注目し、寂然の兄寂超作と考えられる『今鏡』との関連を考察する。『今鏡』巻十「敷島の打聞」には様々な和歌説話が収められているが、この巻頭二話が寂然の『法門百首』88番歌とその左注に影響を受けて構成されていることを論証し、韻文学と散文学が関連して表現や構成が生み出される様を明らかにした。

第四章では、『方丈記』中で長明が我が身を振り返り、人生を概括するに際し、寂然の『法門百首』73・74番歌が仏教的根拠と言葉を付与していることを明らかにした。さらに、『源氏物語』と『方丈記』との影響関係を指摘し、晩年、長明の傍らにあった書物・琴・琵琶の取り合わせが、『紫式部日記』で我が身を述懐する紫式部の傍らにあったものと共通することを見出す。書物・琴・琵琶は、『方丈記』において我が身を語る言説を呼び起こすものとして作用しており、そこには先の『法門百首』と同様に、『源氏物語』と『紫式部日記』からの投影があることを考察する。