本論文の目的は,ヒトが表情を知覚する際の相手の顔の運動がもたらす効果を明らかにすることである.第1章では,これまでの表情知覚研究を振り返り,表情に対する心理学的な関心の中における本研究の位置づけを確認した.第2章から第5章までは,ヒトを対象として行った心理学的実験について述べた.本研究では「運動の効果」に着目するため,表情が持つ情報の中から運動成分のみを取り出し,それ以外の成分を捨象するという手法を用いた.そのために表情を顔面上に配置した点のみで表現した刺激を作成した.これは,歩行の運動情報のみを抽出するために歩行するヒトを各関節に配置した点のみで表現したバイオロジカルモーション研究と共通する(Johansson, 1973).第2章では,この刺激を用いて運動以外の情報をできるだけ低減した場合でも,運動情報によって表情知覚が可能であることを示した.また,そこで示した効果が運動によるものであることを確認するために,白色ブランクによる運動知覚の阻害によってその効果が消失することを確認した.第3章では,運動成分の効果のみを検討するために運動と形態のそれぞれが異なる表情に関する情報を持つ刺激を開発した.この刺激を用いて運動情報を形態情報から独立に操作することにより,形態情報に依存しない,運動情報のみによる表情知覚が可能であることを示した.さらに,運動情報あるいは形態情報のみへのノイズの付加が表情知覚に与える影響について検討し,両情報からの表情知覚のノイズに対する特性の違いを明らかにした.第4章では,表情知覚における運動情報処理に関して,顔知覚の顕著な特性である全体的処理という観点から検討し,形態情報処理に比べて運動情報処理は全体的処理的傾向が強いことを示した.第5章では,第4章の結果とあわせ,本研究で用いた点パターン刺激の顔刺激としての妥当性について検討した.第6章では,これらの実験的知見を基に,表情知覚における運動成分を含めた表情情報処理経路について考察した.

 

 本論文では,わずか18個の特徴点パターンがもたらす局所的な運動ベクトルの組合せによって表情知覚が成立することを示した.しかも,本研究で用いた表情刺激は2フレームの仮現運動刺激であったため,表出過程における顔の動きの細かなタイミングなどは表現されていなかったにもかかわらず,怒り,喜び,悲しみ,驚きという4種類の基本的な表情の知覚が可能であった.このことは,複雑に見える「顔運動パターンからの表情検出」が,実際にはわずか18個の局所運動ベクトルの検出によって可能であることを示している.つまり,表情知覚において,運動は容易に用いることのできる有効な情報ということである.

 

 本研究で表情知覚における運動の効果について検討するにあたり最も重視した点は,極力,形態からの影響を排除することである.このことによって,より純粋な形で表情知覚における運動情報の役割について検討することが可能となる.人間の顔の動きに関する情報は,眉,目,口のように顔の中でも際立った特徴付近から最も抽出されやすいことが示されている(Hill et al 2002).それらの部位に取り付けた点のみを提示することにより,点の数を減らすと同時に,運動情報のみを抽出することができる.第2章では,このようにして静的情報を低減し運動情報のみを抽出するというアプローチにより,運動の効果について検討した.それにより,静的情報が無い条件でも,動的情報を加えることで表情判断成績が向上することが明らかとなった.さらに,運動刺激のISIを白色ブランクとすることで仮現運動知覚を阻害した場合には運動の効果が消失することを示した.これらの結果は,白色ブランクによって阻害される低次の運動情報が表情知覚に有効であることを示している(Braddick, 1973).

 

 第3章では,実験的に運動情報処理と形態情報処理を分離する手法として,動的情報と静的情報が異なる表情を示すような刺激を作成した.この手法を用いて,表情知覚における動的情報と静的情報の関係について検討した.この場合,動的情報の示す表情に関する情報は静的情報には表現されていない.静的情報の影響なく,動的情報による表情知覚について検討することができる.その結果,運動知覚が成立する場合には,動的情報に依存して表情知覚が決定されることが示された.この仮現運動知覚を長いISIの挿入(Baker & Braddick, 1985),あるいは運動情報へのノイズの付加によって阻害した場合には,動的情報が示す表情は知覚されなくなった.第2章,第3章の結果は,動的情報から表情知覚を生じる処理機構が静的情報処理機構とは並列して存在することを強く示すものと言えるだろう.両機構からの出力は,その後,いずれかの段階で統合されると考えられる.

 

 第4章では,顔の倒立,あるいは顔の各部分の隠蔽により顔の全体的な処理を阻害した場合の表情知覚について検討した.顔の知覚は一般的に顔を倒立させると困難になることが知られている.この倒立による影響は形態情報しか使えない場合には,運動情報が使える場合に比べると小さかった.顔の各部分の隠蔽については,運動情報が無い場合にはどの部分を隠すかによって影響が異なったのに対して,運動情報が有る場合にはどの部分を隠すかによらず影響は変わらなかった.これは,前者では手がかりとして重要な部分の処理に重点が置かれたのに対して,後者では顔全体が均等に処理されていたと考えれば説明できる.これらの結果は,運動情報が無い場合には局所的処理が優位であるのに対して,運動情報が有る場合は全体的処理が優位であることを示している.

 

 第5章では,点パターン刺激の顔刺激としての妥当性を検討した.写真あるいは線画の顔を用いた研究で確認されている視線による注意の誘導効果が生じることを確認した。また,写真における顔の変形量と知覚される表情の強度との関係が,点パターンにおける顔の変形量と表情の識別精度との関係が一致していることを示した.これらの結果と第4章において示したように点パターン刺激の場合でも顔知覚に特有な全体的処理が行われていることとは,ともに本研究で用いた点パターン刺激が顔刺激として妥当であることを示している.

 

 第6章では,表情知覚における運動情報処理と既知の運動検出機構との関連について検討した。本研究で用いた仮現運動刺激の代表的な例は,ある1つの点が光った後,適切なタイミングで適切な別の場所で1つの点が光ると,それらの点が最初の位置から次の位置へと動いて見えるというものである.このような古典的仮現運動はISIが200から400 ms程度で見えなくなる(Neuhaus, 1930).一方,ランダムドットパターンの一部の領域だけが一貫した方向に動くと,その領域だけが浮き上がって見える.このようなパターンの知覚は,適切に作成された2枚のランダムドットパターンの仮現運動によっても生じる.ただし,領域の知覚が成立するのは ISIが100 ms以下の場合である(Braddick, 1973,1974).本研究では,表情知覚における運動情報処理機構は,ISIが150から300 msの間で働かなくなることを示した.この値はランダムドットパターンの運動処理機構にしてはやや長く,古典的仮現運動の処理機構にしてはやや短い.これらのことから,表情知覚には複数の運動処理機構が関与していることが明らかとなった。さらに,運動情報が有効な場合には形態情報ではなく運動情報に基づいて表情が知覚されることから,ヒトが表情を知覚する場合には,これらの処理機構からの出力を効率的に組み合わせていることが示唆される.最後に,本論文のまとめとして,本研究の結果とこれまでの研究とを合わせて、現時点において最も妥当と考えられる表情知覚モデルを提案した.