ハディース学文献としての地方史人名録―10-13世紀の編纂流行とその背景―

森山 央朗

西暦10世紀後半から13世紀前半にかけて、中央アジア西部からイベリア半島に至るイスラーム世界の各地で、アラビア語の地方史が数多く編纂された。これらの地方史は、我々が「地方史」という言葉から思い起こすような、ある地域の過去の事件などを記録したものではない。記述対象地域の由緒と美質を語る地誌と、その地域と何らかの関係を持ったウラマー(イスラーム宗教知識人エリート)の学問的経歴・評価を定型的に列挙した人名録によって構成される。そして、人名録が各作品の大半を占め、そこには数百から数千件の伝記記事が収録されている。本研究の言う「地方史人名録」とは、こうした地方史とも人名録ともつかない書物のことである。これらの地方史人名録は、編纂地域が広範囲に及ぶ一方で、各作品は上記の内容と形式を共有しており、強固な共通性を持つ。
本研究は、この地方史人名録の特徴と性格を分析し、その編纂意図を明らかにすることで、10世紀後半から13世紀前半という時期に、同じような地方史人名録がイスラーム世界の各地で編纂された背景を論じる。そのような作業を通じて本研究がまず明らかにするのは、地方史人名録がハディース学文献の一種だということである。ハディースとは、預言者ムハンマド(632年没)の言行を伝える伝承のことであり、ハディース学とは、ハディースの収集・記録、真正性の判定や解釈をめぐる学問体系のことである。ここでのハディース学文献とは、したがって、ハディース学に関係した内容を持ち、ウラマーの中でもハディース学に専門的に取り組むハディース学者が、その学問的活動において書いたり読んだりする文献という意味である。
地方史人名録を取り上げたこれまでの研究は、主に二つのアプローチを採ってきた。一つは社会史研究的なアプローチであり、もう一つは文献学的アプローチである。前者は、地方史人名録を史料として利用し、ウラマーの社会的活動を論じてきた。後者は、ムスリムの歴史叙述や伝記記述を論じる中で、地方史人名録に言及し、その編纂背景としてウラマーの地域的アイデンティティなどを想定してきた。しかし、いずれのアプローチも、地方史人名録が、どのように編纂され、利用されていたのかは、明らかにしていない。また、同様の内容・形式を持った地方史人名録が次々と編纂されたのはなぜかという問題にも取り組んでこなかった。その一つの原因としては、これまでのウラマー研究が、ウラマーの社会的活動に着目する一方で、著述や議論といった彼らの学問的活動を充分に取り上げてこなかったことがあげられる。
確かにウラマーは、社会的エリートとして大きな影響力を持つ存在であるが、彼らが知識人・学者である以上、学問的活動を行うことがその重要な存立要件であったことは論をまたない。したがって、地方史人名録のハディース学文献としての性格を明らかにし、10世紀後半から13世紀前半にかけての編纂流行を分析する本研究は、地方史人名録という、アラビア語書籍の1ジャンルの盛衰を明らかにするだけでなく、地方史人名録をめぐって行われたハディース学者の学問的活動を論じることで、ハディース学者・ウラマーの知識人としての側面に光を当てることにもなる。
以上の問題意識を前提として、本研究は、10世紀後半から13世紀前半に起こった地方史人名録編纂流行の解明を通して、ハディース学者の知識をめぐる活動を考察する。具体的に取り組む課題は、(1)地方史人名録とはどのような事柄をどのように描いた書物なのか、(2)地方史人名録の編纂流行はどのように展開したのか、(3)編纂流行の中で、地方史人名録が、どのように編纂され、流通し、利用されていたのか、という3点である。
まず、本研究の第1部は、(1)「地方史人名録の特徴と性格」を明らかにする。第1章で地方史人名録という書物の概要を把握した上で、第2章で地誌部分の記述内容と形式を分析し、第3章では人名録部分の伝記記事の内容と形式を分析する。以上の分析を通して、地方史人名録がハディース学文献であることを実証する。
第2部では、(2)「地方史人名録の編纂流行の展開」の解明に取り組む。第4章で、16世紀初頭までにアラビア語で編纂された地方史/誌全体の中から、第1部で明らかにした地方史人名録の内容・形式と合致する作品を選別する。その上で、第5章は、9世紀から16世紀初頭までの地方史人名録の編纂活動の盛衰を追う。そして、第6章において、編纂流行を担った編纂者たちの経歴・活動と、その中での地方史人名録編纂の位置づけを分析し、地方史人名録がハディース学者のハディースをめぐる学問的活動の中で編纂されていたことを明らかにする。あわせて編纂者同士の関係を分析し、地方史人名録の編纂流行がハディース学者の地域を越えた知識伝達ネットワークの中で生起した現象であることを解明する。これら3段階の分析によって、地方史人名録編纂流行の全容を描き出す。
第3部では、(3)「地方史人名録の編纂・流通・利用のあり方の分析」に取り組み、そこから編纂流行の実態と背景を論じる。第7章は、地方史人名録の編纂過程を追い、地誌部分と人名録部分の記事がどこに材料を取材し、材料をどのように加工して組み立てられていたのかを明らかにする。第8章は、編纂された地方史人名録がどのように流通し利用されていたのかを分析し、第9章において、ここまでの分析から明らかになった諸点を総合することで地方史人名録の編纂流行の実態を解明し、その背景を考察する。
以上3部9章の分析の結果として明らかになるのは以下の諸点である。まず、第1部の分析からは、地方史人名録の記述内容と形式の特徴として、作品のほぼ全体をハディース学の理論が規定していることが明確になる。次に、第2部の分析においては、地方史人名録の内容・形式の変容と編纂活動の盛衰がハディース学の展開・盛衰と一致しており、地方史人名録の編纂活動がハディース学者に支えられていたことを明らかにする。
この2点を踏まえた第3部の分析からは、10世紀後半から13世紀前半にかけての地方史人名録の編纂流行は、ある地域で編纂された地方史人名録が他地域へ流通し、その地域の地方史人名録の編纂に用いられるという、編纂・流通・利用の連鎖構造をその実態としていたことが明らかになる。そして、この連鎖構造の成立に関わったのは、ハディースの伝わる地域をイスラーム世界と見なし、各地域をその不可分の一部であると考えるハディース学者の理念や、よりイスラーム的な地域の由緒を求める社会的な需要であったとの見解が提示される。しかし、それ以上に重要な背景として本研究があげるのが、ハディース学者の学問的活動における二つの実用的要求である。その一つは、ハディースとその関連知識の流通を維持するという学問上の必要である。ハディース学者が、ハディースの収集・記録と真正性判定という学問的活動を行うためには、ハディースとその伝承者の経歴・評価といった知識が地域を越えて流通している環境が必要であり、そうした知識の流通媒体として、地方史人名録が編纂され、流通し、利用されていたと考えられる。
もう一つの実用的要求は、高い学問的評価を得ようとするハディース学者の野心である。地方史人名録がジャンルとして成立し、高い評価を受ける作品が出現すると、同様の形態でより優れた作品を発表し、より高い評価を得ようとする活動が行われる。この学問的野心が、地方史人名録の利用を新たな作品の編纂に結びつけ、編纂・流通・利用の連鎖構造を完成させることで、各地で同様の地方史人名録が次々と編纂されるという現象を生み出していたと考えられるのである。地方史人名録の編纂流行を大きく支えたのは、学問的活動に不可欠な材料の流通を維持するための学問的必要と、評価の見込める形態で業績を出し、学問的評価を得ようとするハディース学者の野心であったとの結論が導かれる。
本研究の以上の議論からは、ハディース学者が行っていた、知識の流通・収集・利用の連環が浮かび上がってくる。ハディース学者の学問的活動とは、ハディースとそれに関連する知識の流通・収集・利用の連環の中で、(1)ハディース学者自身の理念、(2)イスラーム的な地域の由緒を求めるような社会的需要、そして(3)知識の連環自体の維持に関わる学問的必要という三つの要素を勘案しながら、収集した知識をより高い評価の見込める形態で利用することによって業績を生産し、その業績を流通させることで学問的な評価を獲得しようと努めることだったのである。こうした学問的活動のあり方からハディース学者、あるいは、より広くウラマーと呼ばれた存在を見ると、彼らの知識人としての存立基盤は、知識の連環に参加し、その中で一定の学問的評価を得ることにあったと把握される。
これまでの社会史的ウラマー研究は、ウラマーが様々なコネクションやカーディー(裁判官)職などの有力ポストを手に入れ、社会的影響力を行使したことを解明してきた。その一方で、ウラマーとして存立するための重要な基盤となる学問的評価が、どのような活動を通してどのように形成されていたのかは論じられてこなかった。地方史人名録の編纂流行を分析した本研究からハディース学者の学問的活動が浮き彫りにされたことは、ウラマーの知識人としての側面と社会的エリートとしての側面を統合し、ウラマーの歴史的実態を立体的に理解していくための重要な足がかりとなるのである。

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