本稿は、1970年代以降隆盛をむかえている近世の天皇・朝廷をめぐる研究において、その基礎に位置づけられるべきであるものの、いまだ研究の余地を多分に残す、近世的な機構・制度に着目し、主としてその成立過程を明らかにすることを通じて、中世以前、また近代以降とは異なるような、近世朝廷の実態および特質について検討しようとするものである。特に留意する点として、①近世以前からの朝廷の基礎的な編成である、番衆制に立脚する機構がどのように展開するか、②その際に江戸幕府の政策および制度がどのように関与・影響したか、③実際の朝廷の運営体制、特に先行する時代には典型的な政治形態であった院政と、理念・実態の上でどのような関係をもっていたか、を念頭において検討をおこなった。

第Ⅰ部では、近世朝廷の機構・制度の成立過程について、従来注目され研究が蓄積されている寛文~元禄期より以前の時期に着目し、特に江戸幕府の政策基調が及ぼした影響を念頭において、具体的に検討した。

第1章では、近世的な朝廷機構が成立していく初期の段階について、明正上皇に付けられた公家衆を事例として検討した。具体的には、将軍が彼らを選任し、合力米・役料といった特別の給付を施し、職掌を法度に明記するなど、幕府により重視される存在であったことを明らかにした。かれらの処遇は、近世を通じて重職として知られる武家伝奏と似通っており、後世の上皇付の公家衆と比べると特殊であるが、一部は以降の朝廷機構に受け継がれたとみられる。彼らが厚遇された背景には、明正院が将軍の血を引いていたことがあり、江戸幕府が当初、将軍が天皇の外戚となるという基本路線をとったこと、さらに後にそれを止めたことが、近世的な朝廷機構の成立のあり方に影響を与えたと論じた。

第2章では、朝廷を構成する公家衆と江戸幕府の関係が確立する過程について、公家が宛行われる地方知行、家禄(蔵米)、役料(俸禄)をとりあげて検討した。具体的には、将軍からの宛行・給付を家単位で行うという原則、また家ごとのおよその高も、四代将軍家綱の時代に基本的に確立したこと、またこれを前提に、同じく家綱政権期に、武家伝奏など堂上公家が就任する一部の役職に対して役料制が導入されたこと、を明らかにした。またこれ以降は、家禄(蔵米)・役料ともに、新たに設定される場合は朝廷の内分であったことから、家綱政権を朝幕関係史上のひとつの到達点と位置づけることを説いた。また、家綱政権期の朝廷をめぐる施策は、同政権の領主階級全体に関する政策の基本的な特徴と合致することを指摘、近世国家の一部として朝廷を組み込んでいく過程の完成段階が家綱政権であることを論じた。

第Ⅱ部では、主として天皇の御所(禁裏)以外の御所に焦点を当て、理念や実際の運営のあり方を念頭におきながら、番衆制に基礎をおくような近世朝廷の機構が確立する過程について検討した。

第1章では、17世紀の朝廷を主導した院=上皇の御所に着目し、同世紀の後半から享保期にかけて上皇の御所(仙洞御所)の機構が成立・定着していく過程を、院による朝廷運営(院政)を念頭におきながら検討した。具体的には、まず後水尾上皇・霊元上皇の御所における番衆の勤番のあり方を詳しく検討し、番衆の中からその上位に位置づけられる若干名の公家が分離していく過程を明らかにした。つづいて、霊元院による制度構想をとりあげ、譲位に際し、みずからの院政を支える形で朝廷機構を整備することをもくろんだが、実現はしなかったことを明らかにし、その後享保期にかけて確立する仙洞御所の機構、およびそれと分離された天皇の御所(禁裏)の機構は、上皇による「院政」を前提としない形で確立・制度化されたものと評価できると論じた。

第2章では、前章と一体をなす動向として、禁裏・仙洞と同様に番衆を配属された皇嗣(儲君・東宮)の御所において、「三卿」と呼ばれる役職が確立する過程を検討した。具体的には、やはり霊元院による院政の布石として、当初は内密に配置された存在が、享保期にかけて公的な役職として定着、武家伝奏・議奏などにいたる職制階梯の一環として、公家が実務経験を積むポストとなったことを明らかにした。総じて、17世紀には院(上皇)が若年の天皇を養育・監督するのが基本的な姿であったものが、18世紀にかけて天皇が皇嗣を養育・監督する形に変化し、近世朝廷の制度は後者の形で定着していったと論じた。

第3章では、前章までの内容を踏まえ、以降の上皇と朝廷運営の関係について、桜町上皇の時代を対象にいくつかの事件を取り上げ、朝廷としての意思決定がどのようになされたかを具体的に検討した。当時の朝廷の最高意思決定者は上皇であったが、表向きには幼少の天皇の代行者である摂政が前面に立てられ、上皇による実質的な意思決定は、摂家・武家伝奏など、上皇付ではない重職者の協力により、内々に行われていたことが明らかになった。こうした運営形態の背景としては、1章で示した朝廷機構の確立のあり方、および18世紀に入って上皇の不在が常態化していたことがあると論じた。

第4章では、近世的な朝廷機構の到達点の一例として、日本史上最後の上皇となった光格上皇の御所の機構をとりあげて検討した。選抜された固有の番衆、彼らが兼務した各種の奉行、その上位に位置する院伝奏・院評定衆(「院両役」)について、顔ぶれや職掌について検討した。

第Ⅲ部では、Ⅰ部・Ⅱ部で論じた番衆制を基礎とする職制と平行して成立した、別個の職制の体系や儀礼をとりあげ、実際の朝廷運営や民衆との関係を検討した。

第1章では、中世に倣い「院司」と総称される仙洞御所の職制が、番衆制と平行して整備され、当初は純粋に形式的な補任に過ぎなかったものが、若干の儀礼的な職掌を与えられ、継続的な補任がなされるようになっていくことを明らかにした。官位相当の原則や番衆制との対応関係がみられ、擬古的ともいうべき近世朝廷独自の体系が定着していくことを示した。

第2章では、具体的な儀式として、天皇・院がおこなう宗教儀礼である元旦四方拝をとりあげ、拝礼次第の検討から、必ずしも古典的な儀式書どおりに行われるものではないことを示し、また従来指摘があった院政の象徴としての性格は、院四方拝を再興した霊元院の時代にのみ確認しうる特徴であり、以降は「院司」との関わりが明確になるなど、仙洞御所独自の機構・儀礼の一環となっていくことを述べ、これに基づいて院政期・親政期を区分するのが妥当でないことを示した。

第3章では、中世以前の伝統や儀礼的・形式的な職制とは無関係な、近世朝廷独自の年中行事として、仙洞御所の庭園で行われた「田植御覧」行事をとりあげ、成立過程や次第のあらましを検討し、本来は娯楽であったものが、神事としての性格も後づけされることを示した。また勤役・参観などの形で民衆と関わりが生じるが、不特定多数の民衆ではなく、朝廷と個別の関係を取り結んでいた存在が関与するものであった可能性を示し、また近代以降皇室が行った農事奨励行事との関連性についても展望した。

第Ⅳ部では、近世朝廷に関わる史料に関する基礎的な検討をおこなった。

第1章では、近世朝廷で作成され伝来した公日記類について、その全体像を整理するとともに、その索引として作成されたとみられる史料の紹介を行った。

第2章では、東京大学に多く現存するが、検索が困難である諸史料群から、朝廷に関係する史料を抽出し、伝来過程について検討、一部について紹介を行った。

最後に、以上の検討を整理して、近世朝廷の機構・制度が確立していくにあたっては、幕府の基本的な政策や制度の影響があり、幕府による朝廷の編成は家綱政権期に一端完成すること、これを前提とする近世的な朝廷機構が、以降の規範となるような形で成立・定着していったのは、おおむね享保期ころまでとまとめられること、また各御所の機構は基本的に「役人―番衆(奉行)」制として把握できること、などを指摘した。またそれと平行して、形式的な役職の体系も整備され、儀礼と密接な関係をもって存在したことなどを論じた。