第一章金井三笑と中期江戸歌舞伎

第一節金井三笑の事績―中村座との関わりを中心に―

近世中期の江戸歌舞伎において活躍した金井三笑は、元は金井半九郎と名乗った中村座の帳元の出身の狂言作者である。二代目市川団十郎との親密な関係を利用し、作者業へと転向した三笑は、2度に渡って中村座の乗っ取りを謀るが、いずれも失敗に終わり、その度毎に中村座を追放される。しかし三笑は、座元の交代に乗じて、2度ともに中村座への復帰を果たす。三笑の父もまた、半九郎を名乗る中村座の手代であったが、この名は、初代中村伝九郎の「九郎」を譲り受けたものである。三笑が、中村座に固執したのは、中村座に所縁のある自身の出自を強く意識していたためと考えられる。

第二節市村座時代の金井三笑

宝暦13年(1763)、中村座を追放された金井三笑は、明和2年(1765)度から安永2年(1773)度まで、その活動の中心を市村座へと移す。全盛期とも言えるこの時期において、三笑は、役者不足の一座にあっては、襲名を効果的に利用しつつ多くの役者を取り立てたほか、配役の上でも役者の本来の役柄を転換させるといった工夫を行なった。また大一座の場合では、個々の役者にまんべんなく見せ場を設け、実と敵の仕内を組み合わせるという作劇術を編み出している。三笑は、役者の魅力を引き出す能力に長けた作者であったと言える。
第三節金井三笑の狂言作者論―『神代椙論』と『祝井風呂時雨傘』―

洒落本『神代椙論』(泉花堂三蝶作、安永9年〈1780〉5月序)と、人情本『祝井風呂時雨傘』(為永春水作、天保12年〈1841〉刊)巻之五・第十回には、金井三笑についての記述が見られる。それらの記述を、他の資料での三笑への言及に照らし合わせながら検討すると、三笑が、作劇については、作品全体のメリハリや筋の分かり易さを重要視し、作者の姿勢については、役者の我儘に従わずに常に新作を手掛けることによって作者の権威を守るべきと考えていたことが指摘できる。

第四節『卯しく存曽我』考

金井三笑作の『卯しく存曽我』(寛政2年〈1790〉正月、市村座所演)の二番目の台帳には、既紹介の東京大学国語研究室蔵本のほかに、新紹介となる抱谷文庫蔵本が存在する。東大本は貸本屋大野屋惣兵衛の旧蔵書、そして抱谷文庫本は上演台帳に近いものであり、両者に共通する部分を比較すると、抱谷文庫本に見られる江戸歌舞伎の特徴、すなわち二番目に一番目との関連性を持たせるという要素が、東大本では意図的に削除されていることが分かる。このことから東大本は、江戸と上演慣習の異なる上方の狂言作者が、タネ本として所有していたものと考えられ、しかも、「七五三」の墨書があることなどから、それが具体的に奈河七五三助である可能性を指摘できる。また、内容の面において本作には、同時代風俗の摂取や頽廃美のある人物造型、丁寧な段取りや「毒」のあるおかしみといった点で、三笑の弟子の四代目鶴屋南北の作品につながる作劇術が認められる。


第二章天明・寛政期の江戸歌舞伎の諸相

第一節江戸歌舞伎における台帳出版
―初代瀬川如皐作『けいせい優曽我』をめぐって―

初代瀬川如皐作、天明8年(1788)、桐座所演の『けいせい優曽我』には、花屋久治郎刊の根本が存在する。近世中期の江戸庶民は、歌舞伎を台帳という形式で享受することにあまり関心がなく、また、劇場も出版に関して大きな権限を持ったため、台帳の公刊は上方の絵入根本のように盛んではなかった。本根本は、こうした状況下で、既存の洒落本の形式を借り、波静と瀬川家の親交や、控櫓の桐座での上演作であったことなど様々な条件が揃って出版が叶った、極めて稀な例である。

第二節『春世界艶麗曽我』二番目後日考

寛政3年(1791)2月、中村座所演の『春世界艶麗曽我』二番目後日の台帳が抱谷文庫に残る。この台帳は推敲段階のものであり、担当作者の初代増山金八や木村園次の筆跡が認められる。園次が執筆した中幕の台帳には、立作者の初代桜田治助や二枚目の金八による添削の跡が確認でき、最終稿に至るまでの推敲の過程を具体的に示すものとして貴重である。また、内容の面では、序幕のとろろ汁によるおかしみの趣向が、十返舎一九作『東海道中膝栗毛』の鞠子宿の場面に先立つという点で注目できる。さらに、金八が仕組んだ三代目瀬川菊之丞演じる嶋のおかんという人物の造型には、本作の翌年上演の同じく金八作『大舩盛鰕顔見世』(寛政4年11月、河原崎座)において、四代目岩井半四郎が演じた三日月おせんに通ずる要素が認められ、この三日月おせんを「悪婆」の嚆矢とする従来説の再検討の必要性を促すものである。


第三章四代目鶴屋南北の作品論

第一節『けいせい井堤』考

金井三笑が立作者を勤めた、天明7年(1787)4月の中村座で上演された『けいせい井堤』には、抱谷文庫の四冊の台帳が現存する。本台帳の1冊目は、当時三枚目の作者であった勝俵蔵、すなわち後の四代目鶴屋南北が執筆を担当した部分であり、台帳の形で現在確認できる最も古い南北の作品である。この南北担当箇所には、南北が得意としたおかしみの場面が見られるほか、小道具を伏線として効果的に用いている点において、師の三笑の作風の影響を確認できる。

第二節『四天王楓江戸粧』考

番付のカタリは、立作者が台帳執筆以前に作成するものである。四代目鶴屋南北作『四天王楓江戸粧』(文化元年〈1804〉11月、河原崎座所演)のカタリには、二番目の舞台となる白金に合わせて、近辺の地名を縁語のように散りばめるという技巧を確認できるほか、初代中山富三郎演じるお綱の彫り物という設定や、実際には出演しなかった嵐団八の役割など、台帳では反映されなかった当初の構想を窺うことができる。また、六建目の「今様の所作事」の場面において、カタリの段階では、初代尾上松助が、琴を演奏するという構想になっているのに対し、烏亭焉馬の担当した台帳では、謡を謡うという趣向に変更されているという点は、本作に焉馬や木村園夫がスケとして参加したことと関連があると推定でき、立作者に昇格してまだ間もない南北が、その意向をスケの作者に徹底させる権威を持ち得ていなかったことの証左と考えられる。カタリの分析は、いまだ作品研究の上で定着していないが、南北を考えるにあたって有効な方法であると言える。

第三節『曽我祭俠競』考

従来の研究でその存在が知られていなかった、四代目鶴屋南北作『曽我祭俠競』(文化10年〈1813〉5月、森田座所演)の台帳が、早稲田大学演劇博物館に所蔵されていることが明らかになった。本作は『夏祭浪花鑑』の書き替え狂言であるが、南北が本作以前に手がけた夏祭物である『謎帯一寸徳兵衛』(文化8年7月、市村座所演)が、五代目松本幸四郎演じる大島団七という強烈な悪人を登場させることで、極めて個性的な作品に仕上がっているのに対し、本作は、原作に比較的忠実な穏当なものとなっており、南北の作としては、相対的にやや平凡であるという印象は免れ得ない。しかしながら、18年前の事件の真相の意外性、お仲という純粋な娘が親殺しを犯そうとする悲劇性には見るべきものがあり、また、後の南北の作品につながる趣向が見られるという点にも注目できる。さらには、書き場の割り振り方や、1年の興行全体を視野に入れた作劇姿勢には、南北の作者としての在り方を見出すことができるのである。


第四章幕末・明治期の歌舞伎資料

第一節西尾市岩瀬文庫所蔵『柳島浄瑠理塚奇話』

西尾市岩瀬文庫所蔵の写本『柳島浄瑠理塚奇話』(弘化5年〈1848〉、半化通主人著)は、柳島妙見の初代桜田治助の浄瑠璃塚を舞台にした小説仕立ての作品であるが、実質的には、三代目桜田治助を痛烈に批判した内容となっている。その治助批判に通底する論調は、いかに治助が役者に媚びを売り、虚勢を張った作者であったかということであり、三代目治助を考えるにあたって重要な資料と言える。本書については、旧蔵者の仮名垣魯文が、既に『歌舞伎新報』連載の「狂言作者滑稽伝」という記事において紹介しているが、正確な翻刻とは言い難く、魯文によって大幅に手が加えられたものとなっている。原本が主眼とする痛烈な批判性が弱められてはいるものの、大立者の役者が絶大な発言力を持つ当時の劇界にあって、治助の役者への胡麻擂りはやむを得ないという趣旨の擁護的な加筆には、魯文の狂言作者観が表れている。

第二節歌舞伎役者の墳墓資料

歌舞伎役者の没年月日や戒名、墓所等を記すという『父の恩』(享保15年〈1730〉刊)の趣向は、『古今役者名取艸』(安永3年〈1774〉刊)に継承されるが、戯作の流行とともに、物故役者への興味は冥土物の草双紙などの形で表れるようになり、見た目にも面白みに欠ける名鑑の出版は途絶えてしまう。その一方、こうした資料の必要性を感じる好事家達は、自らの欲求を満たすため、独自に墳墓資料を編纂するようになった。老樗軒の『歌舞伎役者墳墓方角附』の墓所による分類方法は、墓巡りを実際に行なう人にとって利便性の高いものとなっている。また、大部の『役者墳墓詣』は、石塚豊芥子の補填を経て関根只誠の手に渡り、その成果は『俳優忌辰録』という出版物として実を結ぶ。近代に入ると、明治30年代に東都掃墓会という好事家のグループが、積極的に活動を行なったが、その一員でもある兼子伴雨が旧蔵した西尾市岩瀬文庫蔵の役者墳墓資料からは、趣味を同じくする者同士の交流や友情の一端が窺える。