本論は、新古今時代の和歌を取り上げた第Ⅰ部と、南朝和歌を論じた第Ⅱ部から成る。両者は王権奪回を志向して和歌をはじめとする王朝文化の再現を主導した後鳥羽院と後醍醐天皇の時代という点でつながる。この中世の二大変革期のなかで、王朝貴族社会を基盤とした伝統的表象に立脚する和歌はどのような機能を果たしていくのか、作品の成立した場や作者の生きた環境を視野に入れて考察した。
第Ⅰ部では、古典主義の確立、意図的な〈古〉の共有という現象を中世和歌の表現意識の根幹にあるものと捉え、その端的な発現である本歌取りという表現行為に焦点化して、新古今時代の和歌を分析した。本歌取りは現在、定家歌論を規範とした技法論を前提とし、現実を遮断した美的世界を仮構するものとして取り扱われるが、本論では作者と享受者の間に生成する表現行為であり、両者を含めた場の立体的な様相を享受する必要があるという観点から、本歌取りの現実と関与する面に着目し、その歌が生まれた「場」という視点を導入して、その意図や機能、表現効果の解析を試みた。以下に各章の論旨を述べる。
第一章では、『新古今集』春下巻頭に置かれた後鳥羽院の「遠山の桜」詠の人麻呂摂取について、当時流布していた人麻呂のイメージや相手意識にもとづく古歌摂取のあり方、一首が詠まれた藤原俊成の九十賀という場の意義などから、その政治性を検証した。そこから後鳥羽院が自身と俊成の組合せに、奈良の帝と人麻呂という古代の聖帝の御世を重ね合わせていると捉え、詞書や配列を操作して『新古今集』にそうした君臣和楽の構図を打ち出そうとした後鳥羽院の方法を見出した。
第二章では、西行の死を契機として成立した「花月百首」の藤原良経詠を取り上げた。良経にとって初期の作品である同百首には、大量の西行摂取が見られるが、それらは従来、習作期ゆえの未熟さとして扱われてきた。ここでは、西行の発想を取り込み、西行歌の詠み口をなぞるような良経の方法を分析して、西行を模倣するという行為は、西行追慕の思いから良経が意図的に仕組んだものと捉え、百首の構想を読み直した。
第三章では、良経の家集『秋篠月清集』所収歌を題材として、本歌取りの型の抽出を試みた。享受者の反応という視点も取り込んで実作を分析し、本歌取りの表現意識の範疇を探ったもので、具体的には本歌との対峙の仕方から「構造的本歌取り」「展開型本歌取り」「唱和型本歌取り」の三様を見出し、さらに享受段階の思考回路をも享受するという視点から、「創作過程への参入」と「歌枕的用法」という二態を付した。
以上は実作の分析を主眼とするが、第四章では視点を変えて、従来、本歌取り研究の柱となってきた定家の本歌取り論に、「偽書」説のある『毎月抄』の所説を含めてよいのか検討した。同書に見える、摂取句を「上下にわかち置く」という規定の時代性を、定家以後、南北朝期の『井蛙抄』に至る中世本歌取り諸論を収集整理する中で探り、さらに同書が挙げる本歌例「雲のはたて」詠をめぐる方法を、定家や為家らの実作と比較検討して、『毎月抄』の本歌取り論の趣旨は、定家よりのちの世代と親近性を有するものと位置づけた。
第五章では、『源氏物語』摂取に共感と違和感という切り口を設定して、新古今前夜から南北朝期までの表現意識を通観することを試みた。まず建礼門院右京大夫の例から違和感という観点を析出し、院政期や俊成・定家らの例が示す共感の回路を開く機能と対置した。次に良経と後鳥羽院の例に違和感を意図的に創出する方法を見出した。さらに後代の、『続古今集』哀傷部の後嵯峨院をめぐる配列構成や、『新葉集』哀傷部の宗良親王関係歌の表現意識を分析して、『新葉集』に末代の『新古今集』継承者の姿を見出した。
古典憧憬、王朝再現という、新古今時代に〈古〉の摂取を通して確立された詠歌姿勢はどこに向かうのか。その一つの終着点を示すのが、後鳥羽院と同じく王権奪回を志向した後醍醐天皇とその流れを汲む南朝の和歌であると捉えられる。終章では第Ⅱ部への序章として、両者をつなぐ線上に、隠岐に配流された後鳥羽院の和歌を置き、その詠歌姿勢や表現の特色を検証した。
第Ⅱ部では、南北朝の動乱開始時の元弘期から『新葉集』の成立した弘和期に至る南朝方の和歌を南朝和歌と定義し、その表現の特質について『新葉集』を軸として論じた。南朝和歌をめぐる戦前の皇国史観からも戦後の閑却視からも脱して、中世和歌の表現史の動態の中に位置づけることを試みたものである。『新葉集』は従来、「准勅撰集」であるという点と、その歌風は「伝統的な歌」と南朝に生きた人々の現実を反映した「境涯の歌」から成るという点が注目されてきた。そこで本論では〈勅撰性〉と〈貴族性〉という二つの視点を設け、『新葉集』の配列構成から撰者宗良親王の意図を析出して、その勅撰集としての性格を探るとともに、「伝統的な歌」と「境涯の歌」という二分法的な捉え方を再検討して、王朝貴族の末裔である南朝の人々が詠出した「境涯の歌」なるものの表現性を再考するという方法を採った。以下に各章の論旨を述べる。
はじめに第一章では、『新葉集』をある時代状況の中で生まれた一つの作品として読んでいく視座を見出すため、その足掛かりとして十三代集の時代に盛行した歌語「あらまし」に着目した。この語を伝統的発想を基盤としてそれと対置される現実を取り込んでいく機能を有するものと捉え、その生成、変容過程や、南北朝期の特質も検証した上で、この語を有する『新葉集』雑部の歌群の表現性や配列構成を分析して、以降『新葉集』を読むにあたって有効であろうと思われる視座――その配列構成には、撰者宗良親王の意志が強くはたらいており、通常の勅撰集を扱う際と同様に、撰者の操作性を考える必要があること、および、同集雑下の「あらまし」をめぐる配列構成には政治性を顕在化させる意図があること――を導き出した。
続いて第二章では、『新葉集』の政治性とは具体的に何を志向しているのか考察した。同集春下巻頭部分に見える後醍醐天皇の「雲居の桜」詠を取り上げ、京都時代の後醍醐天皇が「雲居の桜」に託した自身の正統性の主張という政治理念を明らかにしてこの歌を再考した。さらにこの歌を北畠親房の歌と唱和するように配した『新葉集』の配列構成を分析し、そのような構想は、第Ⅰ部第一章で論じた、『新古今集』に見える後鳥羽院と俊成の構図を踏襲して、理想的な君臣の姿を仮構したものと位置づけた。
第一・二章の考察より、南朝和歌に通底するテーマとして都志向を見出せる。では宗良親王は、王朝和歌の価値基盤である都をどのように捉え、『新葉集』の中にどのように位置づけているのか。そのことを第三章では、『新葉集』春下の「宮中の花」歌群から考察した。『新葉集』の「都」には、京都の内裏と南朝の行宮の意が混在していること、そのような「都」の両義性は撰者宗良親王が意図的に仕組んだものと捉えられることを明らかにし、「境涯の歌」の意味を問い直した。
また第四章では、都外の地に成った『新葉集』は旅をどう捉えているのかという観点から、『新葉集』羇旅部の構想を分析した。まず花山院師賢の配流詠から都と歌枕という視点を導き出し、勅撰各集と比較して、『新葉集』における都に向けられた視線の強さと歌枕的表現の広がりのなさを指摘した。さらに都と歌枕の分布から同集羇旅部の配列構成を分析し、作者の選択や詞書のあり方と併せて、そこに京都帰還の物語を構想するという意図を見出した。また、宗良親王の読人不知詠の表現性についても言及した。以上、第三・四章の考察より、勅撰集の基盤であるはずの「都」を相対化する視線を有し、その喪失と奪回を配列構成に織り込んだ『新葉集』は、勅撰集として根源的な矛盾を抱えていることを明らかにした。
第五章では、視点を変えて、後代の偽作とされる南朝の説話集『吉野拾遺』を取り上げ、同書に語られた吉野の帝と花等をめぐる南朝の物語と、現実の南朝歌人たちの「帰る」ことを願う詠歌姿勢との間には温度差があること、同書は後代の南朝享受史という視点から読み直せることを指摘した。
以上より第Ⅱ部では、『新葉集』の配列構成を操作する撰者宗良親王の意図、そこに託された京都帰還の願いや正統性の主張といった政治性、和歌表現の伝統と南朝が立脚する現実との相克、それを背景とした「境涯の歌」の範疇の見直しなどを、南朝和歌を読む際の視座として提示した。最後に終章で、以上の各章に共通する「都」の問題の総括として、後醍醐・後村上・長慶という南朝三代の間の「都」観の変遷を辿り、行宮を「都」に準じる概念が普及していく様相を明らかにした。そのうえで宗良親王が『新葉集』を「勅撰になずらふ」集と称したことについての見解を述べ、同集を「異端の勅撰集」と位置づけた。
なお、南朝和歌は中世和歌の中でもあまり研究の進んでいない分野なので、今後の研究に資するため、付録として、南朝和歌に関する参考文献一覧と、現存する和歌作品および『新葉集』詞書等より拾える歌合・定数歌等を年次順に列挙した南朝和歌資料一覧を巻末に付した。