本研究は、『周易』の本来の姿はどういうものであり、それがいつごろ、いかなる理由で、いかなる過程を経て、儒教の経典になったのかを明らかにしようとするものである。この目的を達成するために、出土資料『周易』を中心に『周易』の本来の姿を復元し、それに馬王堆帛書『易伝』、通行本の十翼の検討を加えて、『易』が儒教経典化していく過程を追跡・究明したい。この作業の際、出土資料の取り扱いには、既存の釈文・考釈に依存する姿勢を取らず、必ず図版に目を通し、一字・一句を確認した上で、考察を進めることにする。その中で、通説に対しての再検討を行い、その妥当性を検証し、時には誤りの改正をも試みている。
第一章では、出土資料『周易』の形状・卦画・卦名を考察し、前漢以前の『周易』の姿はいかなるものであったかを明らかにした。そして、『周易』を戦国時代の占筮記録と比較考察することによって、『周易』が占筮記録を総合・整理した書物であることを論証した。
まず第一節では、出土資料『周易』の外形の考察を行った。古代中国では、一般的な読みものは一尺の竹簡を用い、経典は二尺四寸の竹簡を用いたとされてきた。ところが、上海博楚簡『周易』の竹簡の長さは、他の上海博楚簡および戦国楚簡の竹簡の長さと比べると、一般的な長さにしか過ぎず、このテキストが経典視されたという何の証拠も見つけることができない。なお、戦国楚簡の竹簡の長さは通説のように、一定の規定があるのではなく、書物によって区区であることが判明された。また、馬王堆帛書『周易』は整幅に書かれており、半幅に書かれている他の書物より重視されたと思われるが、これも『周易』が経典しされた根拠にはならない。
第二節では、卦象(卦画)の考察を行った。馬王堆帛書・阜陽漢簡・上海博楚簡『周易』の卦象は、いずれも「━」と「╯╰」のように作られており、通行本のそれとは異なる。「━」と「╯╰」は形と名称(爻題)からみて、前身が甲骨文・金文・陶文および包山楚簡・新蔡楚簡などに見える数字卦である。そして、出土資料『周易』の卦画は、数字卦が抽象化され符号になったものである。
第三節では、包山楚簡などの戦国時代の卜筮記録と『周易』を比較分析した。その結果、以下の二点が判明された。第一、戦国中期までの『周易』は、経典でないのはもちろん、代表的な占筮書でもなかった。第二、『周易』の卦爻辞は、当時の卜筮記録を総合し抽象化して成立している。
第四節では、卦名と関連するいくつかの問題を検討し、以下のことを明らかにした。第一、卦名は卦爻辞の中で一文字あるいは二文字を選び出して附けられたこと、第二、第一の事実から『周易』は成立当初から六十四卦の体系であったこと、習坎卦の名称は本来「習坎」であり、後に八卦の概念が成立した際に「坎」と呼ばれるようになったこと、第三、坤卦の名称はもともと「巛」あるいは「川」であったが、後に「坤」に改められて「乾坤」が「天地」を意味するようになったことを確認した。
次に第二章では、「元亨、利貞」という言葉の用例を分析することによって、それが「元」「亨」「利」「貞」といった四徳ではなく、「神が供物を受け取るので、万事が順調に行き、貞問するのに有利である」という意味の占筮の用語であることを証明した。「元亨、利貞」が、四徳ではなく、占いの専門用語であることは、本来の『周易』は儒教経典とは無関係の占筮書であったことを意味する。そして、『周易』が儒家側に経典として取り入れられる際に、占いの専門用語であった「元亨、利貞」は四徳として重視されるようになったのである。
第三章では、『周易』における「中」の意味を考察することによって、『周易』の儒教経典化過程の一側面を明らかにした。戦国末期までの古い『易』には、「中」は「中間」「途中」という意味しかなかった。例えば、上海博楚簡『周易』夬卦の上六の「中有凶」という一句を通行本は「終有凶」に作っているので、その「中」は「初・中・終」の「中」の意味、つまり「中間」「途中」である。ところが、馬王堆帛書『易伝』易之義篇には、「中」が「中庸」「中道」という儒教思想の「中」の意味で使用される例が見える。ただし、これは短編的な用例に過ぎず、易之義篇の段階では「中」の思想を中心に『周易』を解釈していない。通行本『易伝』文言伝では「正中」という言葉が登場する。それは『論語』以来の儒教の「中」の思想を踏まえており、彖伝・象伝の爻位説の基礎となるものである。そして、彖伝・象伝は「正中」「中正」の概念を中心として『周易』を解釈するようになる。そして、「中」の変化過程を検討することによって、彖伝・象伝が繋辞伝・文言伝より後代のものであることを確認することができる。
第四章では、『周易』における「言」という語を考察することによって、儒家が『周易』を取り入れた過程とその目的を検討した。『周易』の経文に現れる「言」という語は、日常の人間生活の場面で起こりうる様子を描写したものに過ぎなかった。ところが、馬王堆帛書『易伝』二三子問篇と易之義篇には、明らかに道家の「無言」「不言」の思想の影響を受けた「言」の解釈が存在する。易之義篇が「無言」「不言」の思想を高く評価する反面、二三子問篇は、小人は言葉を慎んで沈黙するべきであるが、聖人・君子の言葉は肯定している。そして、馬王堆帛書『易伝』繋辞篇では、道家の「不言之教」の思想を踏まえて、それを克服する「言」の思想が現れる。道家の最高徳目である道は、言葉では伝えられないものであるので、聖人は「不言之教」を行って真理たる道を伝える。これに対して、繋辞篇の聖人は言葉で伝えられない道を卦象や卦爻辞を通じて人々に伝える。ここには、道家の聖人より優位にある儒家の聖人像を作り上げる論理が潜んでいる。その聖人は儒教道徳を体現した理想的な存在とされると同時に、呪術性・宗教性をも兼ねた存在とされている。ここで、『周易』は道を伝える媒体として欠かせないものになっている。儒家が『周易』を自派の学説に取り入れた重要な目的は、道家の聖人より優位にある儒家の聖人を作り上げ、道家思想を克服することにあったことがここで明らかとなる。
すでに第三章で十翼の中で彖伝の成立が最も早いという定説は誤りであることを明らかにしたが、第五章では通行本十翼と馬王堆帛書『易伝』とを比較分析することによって彖伝への再検討を行った。馬王堆帛書『易伝』二三子問篇・易之義篇・繆和篇には、彖伝と関連するとされる文章が現れており、これまでの研究はこれらの文章を彖伝からの引用であると見なしてきた。ところが、これらの文章は、彖伝と無関係のものであるか、むしろ彖伝の原型に相当するものである。
第六章では、『荀子』『礼記』『春秋左氏伝』の『易』関連の文章およびその引用を分析して、『周易』が儒教経典として定着する過程を明らかにした。『荀子』の検討では荀況の生前に『易』と儒教とは何の関係もなかったことを確認することができた。しかし、『荀子』非相篇と大略篇には『易』に関連する文章が四個所現れている。これらの非相篇と大略篇の文章は荀況の自著ではなく、戦国最末期~前漢初期のものであるので、この時点から初めて儒教が『周易』を経典として受け入れていったことが分かる。『礼記』表記・坊記・緇衣・深衣篇には『周易』の引用文があり、これらはいずれも権威のある経典として『周易』を引用した例である。しかし、これらの篇の引用文を分析してみると、本来の『周易』の卦爻辞とは違う意味で用いられる引用があり、坊記篇には経文が改められたケースも存在する。これは、『周易』を経典として受け入れた儒家が、その卦爻辞に対して積極的に再解釈を行い、時には経文の変更までも試みたことを物語る。『春秋左氏伝』の『周易』の引用は、預言書としての『周易』の性格を活かしながら、吉凶禍福を決定するのは人間の道徳性であるという結論を下している。これは、占いという呪術と儒教思想が成功的に融合したことを物語る。その時期は前漢末期ごろであると考えられる。