仏伝は「ブッダとは何か」という問いに答えるものであり,その意味は歴史還元主義的な視点からではなく,内在的理解をとおして明らかにされるという認識に立ったうえで,本研究はそうした理解の一つの試みとして,「大譬喩経」の注釈書を主文献として取りあげて,過去仏思想に焦点をしぼり考察をおこなう.過去仏思想の意味については,従来,諸仏のさとった法の永遠性を示すためのものであるという見解が多く示されてきた.しかし仏典の記述を注意深く見直してみると,過去仏思想の主眼は,法の永遠性よりも,むしろ諸仏(諸菩薩)の同一性,とりわけ彼らのあゆむ道までもが同じであるというところにあると考えられる.そして「大譬喩経」を注釈書とともに読み解いて行くと,その過去諸仏についての物語は,永遠の法とブッダとの同一性を前提としつつ,さらにそのような超越的,絶対的存在であるブッダがこの世界に出現するという出来事の未曾有性,不可思議性を主題としていると見るべきことが明らかとなるのである.
第一章では,過去諸仏の同一性と差異の問題について論じる.最初期の経典において説かれている過去諸仏の「道の同一性」は,「大譬喩経」においては諸仏の生涯に共通の「型」として示されている.また諸仏の平等性は,部派仏教のいくつかの論書においても明確に説かれている.だがその一方で,彼らのあいだにはいくつかの差異が認められ,それらのなかには一見彼らの優劣を示唆するかのようなものも存在する.しかし「大譬喩経注」などのパーリ注釈書によると,そうした差異のいくつかは,彼らの出現する時代状況などに由来するものであり,彼らの優劣を意味するものではないと説明されている.以上のことから,「大譬喩経」やその注釈書は,諸仏の平等性・同一性を前提としたうえで,彼らのあいだに,この世界への出現に関係した若干の差異を認めていることが知られる.
第二章においては,諸仏が単にその本質において同一であるというだけでなく,若干の差異を別とすればその現れにおいても同一の「型」をたどることの必然性について,「菩薩出生時の諸法則」を手がかりとして検討する.「大譬喩経注」をはじめとするいくつかの仏典によると,それらの諸法則は菩薩によって将来成就されるブッダの諸力・諸性質の「前兆」として解釈されている.そのことから,そうした諸法則としての奇跡的現象自体は,のちに起こるはるかに重大な出来事,すなわち「ブッダたることの成就」の「副産物」に過ぎないと理解されていたと言うことが出来る.さらに「前兆」という理解に含意されている,こうした「未来の因によって過去の果が生じる」という逆説的関係は,ブッダのこの世界への出現という奇跡が,過去・現在・未来という因果の連鎖に支配された,いわば水平方向のこの世界を超越したところからの,垂直方向のはたらきかけであることを示唆している.諸仏がこの世界に出現する際,その生涯がさながら判で押したかのように同一の「型」にしたがったものとなる必然性も,このようなブッダ出現の不可思議さを表す垂直方向の「反映」,「刻印づけ」としてはじめて理解することが出来る.たとえ明示的に説かれてはいなくとも,「大譬喩経」などが主題とする過去仏思想の背景には,この世界を超越した存在(ブッダ)が,それにもかかわらずこの世界に現れるという未曾有のことがらをめぐる,こうした存在論的構造の理解があると考えられる.そしてそのような理解は,いくつかの仏典の記述によって示唆されている,ブッダの世界における中心性とも符合する.
第三章においては,「三十二の大人相」の問題を取りあげる.これもまた諸仏に共通の性質でありブッダの出現を予示していることから,その背景には「菩薩出生時の諸法則」に関して認められた理解と同様のことが存在すると推測される.また三十二相は,大乗や後代の上座部では観仏行における観想の対象とされていたと考えられているが,初期・部派仏教文献においても,それは菩薩の過去世における善業を表すと同時に,見る者の疑念を取りのぞきブッダに対する信を起こさせるものとして説かれている.さらに三十二相をそなえたブッダの身体は,『大毘婆沙論』においては「最上の正しいさとりにふさわしい器」と理解され,「大譬喩経注」においては,一般の人間の身体とは異なり,まったく欠けるところのない完全なるものとして説かれている.三十二相が以上のような意味を有しており,観想の対象となり得たということは,そうした相好が,単にブッダの超人性を示しているだけでなく,法(真理)そのものであるブッダの現れに特徴的なこととして象徴的に受け止められていたことを示唆している.
第四章においては,初期・部派仏教における二身説の問題について考察する.これに関する先行研究を整理すると,法身の語義,法身と色身の関係,そして色身理解の問題という三点について,特に見解の相違が認められることが明らかとなる.そこでそれらに焦点をしぼりこの問題について検討して行くと,まず法身の語義に関しては,その言葉が文脈に応じて多義的にもちいられていることが理解される.しかし同時に,その言葉はいずれの意味であっても,つねに「ブッダと法の同一性」,すなわちブッダと彼の説いた真理,あるいは彼の実現した諸原理との同一性を示していると言える.
また二身説を説く上座部や有部における法身と色身の関係性に関しては,確かに法身がブッダの本質と理解されていたという観点からは,一部の研究者の主張するように「法身中心的」と言うことが出来るが,しかしそのことは,色身がまったく重視されていなかったということではない.それどころか,それは絶対的真理である法身の,相対的世界への現れとして十分に重要視されていたことが確認される.
二身説においてもっとも議論の込みいっているのは,色身理解の問題である.というのも,それに関しては,有部の色身有漏説と大衆部の生身無漏説のように,そもそも伝統的な諸部派の見解にはっきと相違が認められるからである.しかしブッダの色身が通常の人間の身体とは異なり特別であるという点において,有部や上座部と大衆部の見解のあいだに大きな差は認められなかった.加えて「大譬喩経注」や『大毘婆沙論』においては,大衆部の生身無漏説を彷彿とさせるような記述さえ見出された.そして『大毘婆沙論』によると,ブッダの色身の有漏性・無漏性の問題は,「如来は世間に生存し,世間に長くいるが,あるいたりとどまったりしても世間の諸要素によって汚されることはない」という,有部と大衆部の両者によって認められている経典の一文に対する解釈の相違として説明されていた.すなわち,色身有漏を説く有部は,超人的なブッダの色身でさえも現世的諸条件に従属すると理解したのに対し,生身無漏説を主張する大衆部は,その色身自体が現世を超越したものであり,それが世間に「随順する」ととらえたのである.そうした解釈の相違は,その経典の説く内容の逆説性から,なかば不可避的に生じたように思われる.以上のことから,色身の有漏性・無漏性の問題は,諸部派間の色身理解の決定的な相違に由来するというよりも,基本的に共有されていた色身理解をもとにした一つの解釈の相違を示しているものであると見るべきであろう.
以上のように,本論文の第一章から第三章においては,「大譬喩経注」第一章において大きくあつかわれている三つのテーマ,すなわち過去諸仏の同一性と差異,菩薩出生時の諸法則,三十二の大人相について考察したわけであるが,その結果,そこではつねに法と一体であることによる諸仏の同一性と,そのような彼らの世界への出現という二つのことが意識されていることが明らかとなった.それら二つこそ,「大譬喩経」が主題として一貫して説き,その注釈書がさらに敷衍して述べていることであると考えられるのである.
そしてそれら二つの「大譬喩経」の主題は,初期経典の「法を見る者は私を見る」という言葉と,「私[ブッダ]は世間に生まれ,世間において成長したが,世間を超えて存在しており,世間によって汚されることがない」という一文によって説かれていることそのものであると言える.したがって,仮に「大譬喩経」が比較的後代に成立したものであり,表現のうえで最初期の経典に見られないようないくつかの発展的特徴をそなえていると言うことが出来るとしても,それは初期経典においてすでに示されている法とブッダとの関係,そしてブッダと世界との関係についての理解を,新たな形で表現しただけであると見るべきであろう.
また過去仏思想全般においても,当初から単に法の永遠性が説かれているのではなく,諸仏のあゆむ道の同一性が示されていることを考えると,「大譬喩経」の二つの主題は,過去仏思想の最初期からすでに意識されていたと思われる.つまり「大譬喩経」は過去仏思想の歴史において,何か画期的で新たな展開をもたらしたというよりも,むしろ当初から一貫して保たれてきた理解をより発展的な形態で説いているに過ぎないのである.そしてそのような過去仏思想の二つの主題は,第四章において見たように,のちに二身説として仏身論の文脈において論じられるようになって行ったと考えられるのである.