本論文の課題は、フッサール現象学における自我の問題について考察し、フッサールの残した諸分析の内実を検討しつつ、それを現象学的自我論として再構築することにある。
フッサールの自我論において主題となるのは、〈主観〉としての自我である。主観としての自我は、世界内部的な物質の連関の中に位置づけられ把握されるような客観の一種としては考えられえない。むしろ、客観的な諸事物や諸々の出来事を〈対象〉として捉える主観としての自我のあり方こそが、ここでの問題となるのである。
だが、主観としての自我はそれ単独では空虚である。それは志向的な諸対象へと関わりゆく主体、諸対象に対する主観として考察されることによってのみ把握されうる。差し当たり容易に理解されうるのは、「私」は様々な〈他なるもの〉としての事物や事態に対する主観であるということである。しかし、それだけではない。「私」は、「私」がまさにそのような主観であるということを、反省によって理解することができる。つまり、「私」は事物に対する主観であるのみではなく、反省を遂行することによって「私」自身をも言わば〈他なるもの〉として捉える主観でもある。そこで本論文では、次の二つの観点からフッサール現象学における自我の問題についての考察を行う。
(1) 対象一般に対する主観としての「私」
(2) 「私」自身に対する主観としての「私」
(1)の観点からなされるのは、諸々の事物に関わる主観(純粋自我、あるいは超越論的自我)としての自我に関する「現象学」的考察である。それに対して(2)の観点から主題化されるのは、反省によって「私」自身を対象化する「私」のあり方である。したがって(2)の考察は、フッサール自身が「現象学の現象学」と総称した試みを含んでいる。

第1章では、議論の導入として、体験流を生き抜く同一の主体としての「純粋自我」から「モナド」としての自我という後期の概念に至るまでのフッサールの自我概念の展開を確認する。『イデーンI』で純粋自我は様々に変動する体験の同一の〈極〉として特徴づけられている。それに対して後期のフッサールはこの〈極〉のうちに「歴史」と「習慣性」を認め、『デカルト的省察』の「モナド」概念において自我を「世界」との不可分な相関のうちで生成していくものと見なすに至った。だが、この後期の自我概念の内実や、それが要請される根拠は、フッサールの「対象」理論を検討し、そこで捉えられている対象のあり方の変遷を明らかにすることによって、はじめて十全に開示される。

そこで第2章では、まずフッサールの「対象」理論を詳細に検討する。そして、それに基づいて、彼の自我概念の変遷がその対象観の変遷によって要請されるものであることを明らかにする。
フッサールは、言語的な〈意味〉と〈対象〉との区別を一般化・徹底化することによって、「諸述語」の空虚な主語としての対象「X」概念を獲得するに至った。しかし、この「X」概念のうちには、〈「諸述語」の統一点として回顧的に確認される空虚な「X」〉と〈諸規定の進行において常に同一な、理念の相関者としての「X」〉という二つの意味が混在している。こうした対象概念の二義性が生じた理由は、前者の回顧的に確認されうるのみであるはずの「X」概念が、経験の進展に従って対象の諸規定が豊かにされていくという過程の説明に持ち込まれたためであった。この二義性を確認した上で、第2章の後半では、後のフッサールの「発生的」な視点からなされた考察を、「X」概念が孕む二義性の内的な克服の過程として解釈する。そして、対象の意味生成の過程が考慮に入れられることによって、「歴史」あるいは「習慣性」を担う主観という後期の自我概念が要請され、最終的に自我は世界との不可分な相関の中で規定されるに至ったということを示す。

前章の議論では、「習慣性」としての「過去」への関与が主観としての自我を支えているという見解が示された。それに対して第3章では、自我の「未来」への関与という側面について考察する。フッサールは、様々な対象を知覚する際に、その対象を〈何度でも再想起できる〉という自由な能力の可能性が開かれていることが、自我にとって持続的に存在する「即自的」な対象を成立させる条件になっているという見解を示している。ここではまず、この点に関してフッサールが様々なテクストにおいて断片的に呈示している洞察を再構成する。次に、ハイデガーのカント解釈とフッサールの「再想起」論との親近性を見出し、前者によって後者を補強することを試みる。
こうした考察を通じて、自我はこの「能力」としての「未来」へと関与していることによってはじめて「過去」にも関与でき、またひいては対象に対する主観として存立しうるという事態が開示される。

上記の現象学的考察は、自我が反省によって自己自身を対象化することによって可能となっている。そのことが意味しているのは、自我は自己自身に対する主観でもあるという事態である。本論文の後半では、この「私」自身に対する主観としての「私」に関する考察を行う。

第4章では、主にフッサールの反省論を参照しつつ、「私」に対する主観としての「私」のあり方について考察する。反省の構造は「後からの覚認」と「自我分裂」という概念によって特徴づけられるが、これらの見方から明らかにされるのは、自我が恒常的に「自己忘却」という様態にあるということである。こうした自我観は、「ベルナウ草稿」における「原象」という概念において尖鋭化されている。あらゆる対象に対する主観としての自我は、決して対象とはなりえず、ただそれらに対峙する限界としてのみ考えられうる。しかし、「原象」をこうしたものとして理解することのうちには、暗黙のうちにそれを対象化するということが含まれている。「私」は「原象」を固定化し、それへと繰り返し立ち返り、その非時間性・匿名性について考察し理解するが、その際に本来的に「原象」として考えられるのは、そうした対象化を行う当の主体である。こうした「原象」の把握を徹底化する試みは、「C草稿」において「生き生きとした現在」への還元として呈示されている。それは、反省によって捉えられる超越論的自我に対してさえ主観であるような、「超越論的原自我」への反省として特徴づけられる。
しかし、結局のところ、主観としての自我を捉えようとするこの試みが完遂されることはない。「生き生きとした現在」における自我は、何らかの仕方でそれを把握するや否やただちにその把握内容を否定するという運動のうちにある。むしろここでは、フッサールの議論の徹底化により導かれる一つの帰結として、究極的な主観としての自我は〈その都度常に新たな反省の遂行による把握の更新を要求してくる何か〉として規定されることになる。

第5章では、前章で論じたような自我の問題が、フッサールの「他者」論の根底にも伏在していることを明らかにする。他者は「私」にとって客観の一つであると一旦は考えられる。だがそれは同時に単なる客観ではなく、「私」と同様、世界に対する主観としても理解されている。ここでは、フッサールの〈自己移入〉、〈他者経験と想起の類比〉、〈自我と他者の共現在〉に関する分析を検討した上で、他者理解が、〈自我の唯一性〉と〈超越論的間主観性の存立〉という二つの事象の理解の間に生じる運動を含んでいることを明らかにする。

先行する二つの章において示されたのは、自我の自己把握における運動の様態であり、〈その都度常に新たな反省の遂行による把握の更新を要求してくる何か〉という自我観であった。しかし、フッサールは反省的自己把握の問題を論じるのと並行して、反省に先立つ、反省の可能性の条件としての自己意識(内的意識)について断続的に語っていた。だが、この問題に関するフッサールの見解は多様で整理されているとは言い難く、様々な解釈を許すものである。
そこで最後に第6章では、この問題に関するフッサールの議論に対する一つの解釈の可能性を呈示し、先反省的な自己意識として語られる事柄の内実がどのようなものであるのかを考察する。先反省的な自己意識に関する議論は、『論理学研究』における「知覚されること」と「体験されること」との区別を端緒として、〈絶対的意識と「背景」意識の類比〉、〈把持の二重の志向性〉についての議論を経て、後期の思索における「先存在」および「先志向性」の概念へと到達するものとして理解することができる。そこで明らかとなってくるのは、先反省的な自己意識は、能動的な志向的意識の類比物として考えられてはならないということである。それは反省以前の自我に関する知を獲得するものとして考えられてはならない。こうした理解は、フッサールが初期のころから直面していた、深層の内的意識を次々に想定せざるをえなくなるという「無限後退」を導くものである。
先反省的な自己意識の内実は、「生き生きとした現在」の自我が、作用を遂行するまさにそのことにおいて、自己自身に新たな反省を「促して」くるということのうちにある。この自己関係の構造について、最後にフッサールの「自己触発」への言及を手掛りとして考察する。「生き生きとした現在」の自我は、恒常的に自己自身を触発している。しかし、この純粋な「自己触発」は、それに自我が応じて反省を遂行した時点で、〈反省された自我〉から〈反省する自我〉への触発――異なった二項間に生じる触発――に転じてしまう。自我の自己自身への純粋な自己触発へと応答して反省を遂行する際に、この自己触発は〈反省された自我〉からの触発に転化し、それと共に、今度はこの応答そのものが純粋な自己触発として自己を触発してくることになる。フッサールの呈示する「自己触発」の概念は、このような自己把握の運動の根底で生起する事態を表現しようとする試みと見なすことができる。この、遡行的に理解することができるのみで、かつ決して完全に解明することはできない純粋な「自己触発」という概念のうちに、「私」の探究が行き着く一つの終着点が看取されるのである。