日本華厳思想の研究―平安期の華厳私記類を中心として―

金 天鶴

一般的に、平安時代の華厳宗は他宗に比べやや衰退していたとされる。この評価は一部分において肯首できる。しかし、思想的著述の数からすれば決して少ないとはいえず、例えば、凝然の『華厳宗経論章疏目録』には25編の私記の名目がみえるほどである。
こうした私記類が著されるに先立って、奈良後期から平安初期の間に活躍した人物に寿霊と智憬がいる。彼らは共に東大寺創建期前後の華厳思想家であるが、新羅の仏教との親密性がうかがえる。こうした傾向は、法相宗におおける基と円測を均等に重視するという流れから間接的に影響を受けた可能性が高い。こうした法相宗の影響下に日本の華厳宗は法蔵と元暁とを融合しようとする動きを生み出したとみられる。
その後に著された私記の中で、確実に東大寺学派に属するものといえるのは増春の『華厳一乗義私記』であるが、それより早いものとして『華厳立宗五教義略私記』と『華厳十玄義私記』がある。『立教義私記』と『十玄義私記』は法蔵と慧苑とを共に重視するが、『立教義私記』においては、必ず慧苑と寿霊とをそのまま受け入れずに、間接的に批判することもある。『十玄義私記』は、新羅の義相系の文献が初めて引用される文献であり、その点においても注目に値する。また、草木成仏が論じられたり、「一法界真如理」を世界の原理として理解している。増春の『一乗義私記』でも「一法界真如理」は尊重される。平安時代、各宗が競って一乗義を宣揚している中で、増春の『一乗義私記』は─真言の影響は見られないが─そもそも真言宗の寛朝の『一乗義私記』を抄したものと考えられる。『一乗義私記』にも『十玄義私記』で好意に取り扱われていた新羅の文献がそのまま利用されている。義相系のものであるにも関わらず法蔵のもののように扱われている『香象問答』が引かれて、法蔵の華厳教理とは異なる思想が、中国のものとして理解される結果を招いた。また、『一乗義私記』に引かれている『新羅珍崇記』は『十玄義私記』に引かれていた『新羅記』と同一文であるが、これは、当時の華厳宗の僧が常に手許において参照するものだったようである。増春の課題は、華厳宗独自の一乗義を確立することであった。『一乗義私記』の中で十回以上繰り返される法相宗との諍論は、一乗義の確立の必要性に迫られ敢えて起こした諍論であったように見られる。該書では、二乗廻心(特に定性二乗廻心)、三乗廻心、そして宗派意識に基づく法華経観など、日本華厳宗において重要な問題が取り扱われている。他の私記に比べて明らかに論諍的であるのは、そうした一乗義の確立を計ったためであろう。ちなみに、それはもちろん終教以上の一乗義である。
なお、私記類が著されるのに先立ち、勅撰の六本宗書の一つとなる普機の『華厳一乗開心論』6巻が著されている。該書は830年代の勅撰で、東大寺に潅頂道場が設置される823年頃、すなわち空海の影響を受けた後の著作である。『開心論』の現存箇所からは私記類との明確な思想的関連性は認められず、また、私記類で広く認められていた「終教以上の一乗義」という概念も用いられていない。しかし、全6巻のうち1巻のみが現存している現状では、確かなことは言えない。現存箇所を仔細に検討すると、私記類と同様の発想基盤に立っていると見られるものがある。すなわち、『開心論』は慧苑の教判をそのまま受け入れており、五教判でいう「終教以上」を一つの宗として認識していたはずである。
本論で取り扱っている六種類の私記の中で、『大意略抄』のみが「終教以上」という用語を使わないものの、「終教以上の一乗義」に等しい考え方を持っていたとみるべきである。同書の教判は、始教から円教までが連鎖関係にある。すなわち、円教を二つにわけ、一方では終教を包み込み、終教も同様に始教を包み込むとし、しかも、円教の立場から始教を低く見る姿勢もなく、法相の教理は深められると終教および円教をも包含するという表現まで用いる。とりわけ円融説については、一般的に終教の分斉であるはずの理事円融が円教の分斉に入っている。なお、『大意略抄』の影響を受ける『種性義抄』は、天台密教の成仏論の影響を受けて華厳文献として初めて「即身成仏」説を打ち出すなど成仏論を多様化する著作であるが、ここでは「終教以上」ということばを使っている。
東大寺学派と華厳・真言が兼学される海印寺の流れを想定したが、これに薬師寺学派を入れなければならない。特に種子義をめぐっては相互非難を行っている。このことは寿霊から端を発している。寿霊の時期から薬師寺華厳思想との対立意識があったことは、早い時期から南都華厳宗の中で学派意識が存在したことを知らせるものとして重要である。
薬師寺系華厳思想には、新羅の義相系の解釈が反映されていたようである。種子義の中、「倶有」の議論において見たように、寿霊によって批判される「縁倶有」という説は、義相系の正統説であった。このことから、寿霊の批判対象が義相系と深い関連をもっていたことが浮彫になった。
以上、日本の華厳宗に三学派を想定して論じたが、「私記の時代」における華厳思想の共通点を考えると、まず、「終教以上の一乗」という共通の教判認識にもとづいていることが上げられる。そして、『五教章』の教理を早く覚えようとする目的で作られたと見られる。「略頌」を用いることも、『私記』の時代に端を発していることを付言しておきたい。また、『法華経』や天台思想を華厳教判の枠組みの中に入れ、『華厳経』と同居させるという点が上げられる。さらに、平安時代の華厳思想の最大公約数的特徴は、法蔵を頂点とする華厳宗の教理に傾倒していくという点が指摘できる。
ところで、日本の華厳思想は、奈良時代から法蔵へと傾倒していくにも関わらず、新羅の華厳思想とは切っても切れない関係となっている。実際にどのような関連性を持っているかについて考察する手段として、無碍説、定性二乗廻心説、三乗廻心説、法華経観という四つのテーマを選んだが、いずれも当時において中心的問題であったと考えられる。
無碍説については、事事無碍的な発想を基本としながらも、これに制限されず自由な発想ができた。日本華厳宗の理理円融説がそれである。理理円融説は『大意略抄』に円宗の円融説としてはじめて紹介され、その後、景雅の『華厳論草』においてそれに関連する解釈が紹介される。景雅の説明によると、理理円融とは「法界は一味でただ理のみ妄はない」ことを現すものであるので、日本華厳宗における「理」と「理」とを相即させる発想は、結局、ことの内部の原理としての理一つに焦点をおくことになる。華厳宗の中では、理理無碍が「論義」の論題にも挙がった。その論義の文によると、理理無碍とは智儼から始まっているといいながら、義相の『法界図』の文を引いている。このように、東アジア仏教において理理円融思想は不雑な様相を呈する。
次の「定性二乗廻心説」の場合、この問題を日本の華厳宗の立場から初めて取り扱ったのが『一乗義私記』である。しかし、中国と日本仏教において既に充分議論され尽くしている問題であるが、華厳宗の立場から興味を引くのは、定性二乗が廻心した後、どの境位に入るかということである。一般的には、二乗は廻心して大乗に入ってから円教に入ると解釈される。これに対して増春は、無余涅槃に入った二乗が廻心して別教一乗に入ると述べる。その理由は難解であるが、おそらく、『一乗義私記』は初め真言宗の寛朝が著したものを増春が抄したものであるため、中国や新羅の華厳思想とは異なる発想ができたのではないかと推測される。
次に「三乗廻心説」についてであるが、華厳宗の教理によると三乗の権教菩薩がどの段階で一乗に入るかが問題となる。これを初めて取り上げたのは寿霊の『指事』である。しかも、自説に背くものを有迷者と称して、激しい批判を浴びせている。寿霊の発想には、『法華経』を重んじることや、教判的に同教一乗を別教一乗と同等に扱うという思想的背景がある。有迷者の意見はそれと異なっていたので非難されたのである。
『一乗義私記』では『香象問答』の真偽問題を多く取り上げているが、これが問題とされる理由は、そこに仏果廻心説が出てくるからである。結局、これが法蔵の著作とされるため、これを否定したくてもしきれずに終わってしまうが、それによって日本華厳思想の中には三乗仏果廻心を認める動きが出てくることになる。およそ湛睿の時代を境にして仏果廻心説が認められるようになったが、それは『華厳経問答』の他に澄観の『華厳経疏』における教道の論理が一役買っている。このように日本華厳における三乗廻心説にこの二つの書物が与えた影響は大きい。
最後に、「法華経観」についてであるが、華厳宗の教理において、別教一乗を証明するため『法華経』が多く取り入れられるのは、『五教章』「建立一乗」を見ても分かる。その分、華厳の教判では、『法華経』は三乗とも同教一乗とも位置付けられる。なお、新羅においては特に『法華経』で説かれる大白牛車が評価されるが、『華厳経』の位置を揺るがすほどではなかった。一方、日本の華厳宗では、『法華経』を華厳の教判に組み入れようとする方向性が読み取れる。寿霊が三乗廻心説を強く批判したのは、『華厳経』と『法華経』が同様の価値をもっていたと考えていたからである。『一乗義私記』においては『法華経』と天台宗を分けて考える姿勢が感じ取れる。こうした立場は湛睿の『華厳法華同異略集』に継承されるが)、それは澄観が『法華経』を漸円として高く評価しているからである。しかし、湛睿は『華厳経』と『法華経』の同一性を強調するため、湛然を厳しく批判している。これは師の凝然には見られない立場である。
以上のように、日本的な仏教が形成される背景には、日本仏教内の相互関係、及び東アジアにおける仏教のダイナミックな流れへの対応あるいは適応が存していたのである。

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