台湾における「日本」イメージの変化、1945-2003――「哈日現象」の展開について

李 衣雲

1990年代、台湾では大量の日本大衆文化を中心として、約10年間の哈日ブームが起き、それは強大な経済力を引き起こしただけでなく、「日本」イメージを一種の高い文化資本をそなえるブランドとした。
しかし、日本大衆文化は1970年代以前、すでに「日本の匂い」の抹消された形で台湾で存在していた。1972年の日中国交樹立以降、日本文化が禁止されたため、アンダーグランドで発展していった。戒厳令が解除されてからの1990年代、顕在化した日本大衆文化は経済力を拡大し、哈日ブームを形成した。つまり、哈日ブームは突発的なブームではない。
ところで、台湾は旧日本植民地であり、戦後、反日教育も実施されていたが、旧植民地支配者である日本に対抗的意識が薄く、ブームを起こすほどの好意が存在している。この状況は、台湾の歴史によって理解されるべきである。
終戦後、台湾人は台湾を接収しにきた中国(国民党)政府を「祖国」、日本を「旧植民地支配者=悪」とみなした。しかし、当時の台湾人の日本植民地時代に身体化されたハビトゥスは、異なる歴史を経験してきた中国人のものとは全く異質で、しかもそれは主観的意欲だけで変化させられるものではなかった。逆に、国民党政府にとって、台湾は戦時には敵である日本の一部であり、日本の罪悪を分け合うべき存在であった。国民党政府は日本植民地政府のように、台湾社会で支配者と被支配者の区分をつけ、台湾人と衝突を繰り返し、1946年の「228事件」によって、ついに新植民地支配者となった。台湾人はこの同じ漢民族である新植民地支配者に抵抗するための区別する基準を探し、当時、両者の最も際立った差異である日本植民地時代の経験が、その基準になった。こうして、台湾人にとって、「日本」イメージは好転し、しかも抵抗的な意味が生じた。
1950年代以降、国民党政府は中国化政策を強力に行った。日本は「民族の敵」であるという中国本位の集合的記憶が普及したが、日本大衆文化は依然としてアンダーグランドで発展しており、しかも日本への好意を招いた。この現象について、以下に理由を述べる。
第一、国民党の集合的記憶に対抗する集合的記憶の存在である。1960年代末以降、戦後世代が構築した台湾本位の集合的記憶では、「日本」は対抗的意味を持ち、相対的な好意が形成された。さらに、日本植民地時代を経験した台湾人は、身体化されたハビトゥスを再生産の次元で次の世代に伝承しており、台湾人の戦後世代は「日本」に親近感、さらに好意を持つようになった。また、台湾社会に残っている日本の痕跡、および台湾人との接触の中で、外省人も日本大衆文化を受け入れるようになった。
第二、大衆文化は、政治・歴史と分立する特質をそなえる。大衆文化の消費者にとって、その「日本」は実際の日本国ではなく、一種の「虚像」でしかない。そこで、「日本」に対する好感は、必ずしも日本国への好感と一致するわけではない。
第三、台湾で長期にわたり二つの集合的記憶が絶えず闘争し続けてきたので、戦後世代に歴史的連続性の断裂を形成させた。この現象は、かえって日本大衆文化によって形成された「日本」イメージを、二つの集合的記憶と共存させている。
第四、1970年代以降、台湾は消費社会に進み、消費生活に対する需要が現われたが、政治の統制で、長期間にわたり台湾の文化市場は空白であった。この文化市場の欠乏は、外国からの大衆文化によって埋められた。第四、政治の統制で、長期間にわたり台湾の文化市場の空白であったが、1970年代以降、台湾は消費社会に進み、消費生活に対する需要が現われた。この文化市場の欠乏は、外国からの大衆文化によって埋められていた。特に文化近似性をそなえる日本大衆文化は、台湾の産業界に能動的に導入され、アンダーグランドで自らの優位性を作り上げていった。
1990年代、哈日ブームは起き、いまひとつの「日本」イメージを構築した。日本大衆文化は長い間その実用価値で消費者の信頼性を築き、その後、日本番組は、撮影の技法などを通して、一種の上品な「日本」イメージを形成した。この「日本」イメージは、次第に上品さを代表する「日本」というブランドを築き、消費者は「日本」商品を使う際、「日本」ブランドが持つイメージも分ち合う。かくして、「日本」ブランドは日本大衆文化や商品から離脱して、一つの独立した記号になった。しかし、「日本」は一種のブランドとして、新鮮さを備える「物」を提供しなければ、ブランド自体の存在を喚起することができない。海賊版や代替商品の出現などのため、哈日ブームを支える「物」が少なくなり、哈日ブームは「日本」ブランドを保てていても沈静化して、台湾消費者の日常生活の一環に退いてしまった。

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