序章クライストの「心」とカントの「産出的構想力」

1801年3月、クライストは、24歳のとき、「カント危機」といわれる思想上の危機を体験する。そして、この体験は、クライストに、悟性傾倒から悟性離反への転回を誘発する。この章では、悟性から離反したクライストが、悟性に対置し、強調していく「心」(Herz)という概念を、『純粋理性批判』第1版における「産出的構想力」と比較することによって、クライストの「心」と、カントの「構想力」という主観的な認識能力とのあいだの類似点および相違点を見さだめ、本論において、クライストの三つの作品とカント哲学の地平との距離を俯瞰するための布石を打つことにする。

第1章間主観的な場における対話

この章では、「心性」(Gemüt)という概念に着目し、カントの「心性」が、人間の認識が成立するところの主観的な意識であるのに対して、『話をしながらしだいに思考がつくりあげられていくことについて』における「心性」は、間主観的であることを明らかにする。
『話をしながらしだいに思考がつくりあげられていくことについて』において、話し手の「心性」は、話し相手の表情や動作によって、話し手自身の制御をはなれたかたちで昂揚させられるということによって特徴づけられている。このように、話し手の「心性」は、自己と他者とを明確にわかつことのできないような場、すなわち、他者の身体を介する間主観的な場が設定されることによって、昂揚させられるのである。
話し手は、話し相手からの働きかけによる「心性」の昂揚のもとで、話しはじめたときには未決定であった思考を、思考と表現とが同時に進行する一回性において生みだすような偶然性にかけなければならない。こうして生みだされてくる思考は、カントの思考の産婆術におけるような、自己同一的な主体の内部においてのみ展開される思考ではなく、話し手の未知なるものとの遭遇を可能ならしめるような創造的な思考なのである。

第2章偶然と自我

この章では、『チリの地震』における偶然の性格を、偶然に関するカントの見解と比較することによって、両者のあいだの相違を明らかにし、また、カントの「崇高の感情」との比較をもとに、間主観的な性格をもった感情について考察する。
カントは、因果関係が、人間の認識を可能にするための条件であるがゆえに、偶然の存立する余地はないと主張している。だがそれに対して、『チリの地震』では、偶然が、登場人物の側の認識によってはとらえることのできないかたちで存立するものとして、読者に呈示されている。また、偶然は、認識する自我の自己同一性を打破するものとして明るみにだされているばかりではなく、死に対する恐怖によって、自己を意識している主体の同一性は破られ、自己同一的な主体には還元されえない偶発的な行為が現実化されている。
『チリの地震』では、地震に見舞われたすべての人の胸のうちに、『判断力批判』における「崇高の感情」が呼びおこされるかにみえる。しかし、カントの「崇高の感情」が、実践的に展開されているわけではない。そして、作品の結末においても、「構想力」と「理性」という主観的な心のあり方にもとづくカントの「崇高の感情」に、間主観的な性格をもった直接的、無媒介的な感情が対置されているのである。

第3章近代の主観主義的な美学を越えて

この章では、カント美学、および、シラーの優美論との比較をもとに、『マリオネット芝居について』において、近代の主観主義的な美学の枠を越えていく視点が呈示されていることを明らかにする。
『マリオネット芝居について』では、操り手と人形との関係における享受および産出の問題をめぐって、カントの「趣味」および「天才」が基礎づけられている「構想力と悟性との自由な戯れ」といった主観的な心のあり方は前提されておらず、人形の優美な舞踏は、操り手の主観からすれば、人形が思いもしないかたちで動くことのよって生みだされるのであり、操り手は、人形の身体を介して設定される間身体的な場において、その自己同一的な主体には還元されえない人形の優美な舞踏を現実化するような偶然性にかけなければならない。また、シラーは、優美を主体によって生みだされる人格美としてとらえている。だがそれに対して、『マリオネット芝居について』では、優美が、全く意識をもたない模型人形、あるいは、無限の意識をもつ神に出現するとされており、優美の成立のために、享受する側や、産出する側や、所有する側の主観的な心のあり方が前提されてはいないという点で、近代の主観主義的な美学の枠を越えていく視点が呈示されているのである。