本稿が主として考察の対象にする時期は15~16世紀であり、地域は北東アジアから東南アジア、南アジアである。「大航海時代」、「三国世界」は、それぞれ上記の時期、地域を表現する言葉として用いている。従来ヨーロッパの東漸を示する用語であった「大航海時代」を、それ以前から当該領域に存在した多国間通交の実態を表わす言葉として使用した。また、「三国」は、いわゆる本朝・震旦・天竺で、本稿においてはインド以東のアジアを指す概念とする。
15~16世紀のうち、15世紀は海禁秩序が比較的保たれていた時期ということができる。その意味で夷船通交は、海禁秩序と同義であった。本稿の前半部を使船の考察にあてているのは、この事情による。そのなかにも、夷船通交が海禁秩序の枠外に拡大していく条件が萌芽している。後半では拡大後の夷船通交の実態について考察する。
第1部室町幕府と遣外使節では、朝鮮半島におけるいわゆる前期倭寇が終息した15世紀を中心に、適宜前後の時期を見通しながら、使船の往来をめぐる制度に重点を置いた考察をしている。第3章冒頭で述べているように、当該期における夷船は、ほぼ使船に限定されるためである。明の海禁秩序下における公式外交ルートである使船往来のなかに、第2部での展開を予感させる諸要素の萌芽をみることができる。
第2部使船から夷船へでは、15世紀後半から16世紀前半の日本を中心に、海禁秩序の枠組みがいわば換骨奪胎されていく事情を考察した。外国使節の来日が途絶えたことで、明の監視から自由となり、海禁秩序のグレーゾーンとなった日本において、さまざまな仕組みに変化が起こる。渡航証明書である勘合の管理が弛緩・流通し、船団の運航と切り離され利権化する。時として盗難にあう事件すら起こる。そして使節が仕立てられる。その使節に対抗する使節も仕立てられる。その中には倭寇に近い性質をもつ使船すら登場する。海禁秩序から事実上離脱したとすら位置づけられるこうした情勢にあって、はじめてポルトガル船との持続的交易も可能となる。夷船通交と呼ぶにふさわしい多様な通交形態が、なぜ日本においてのみ可能であったのか。その条件を考察する。
第3部夷船通交の成立では、第1部、第2部の事情により、日本は三国世界へ夷船通交を拡大する条件を整えた。第3部ではその具体的展開について考察する。当該地域には、ポルトガル及び、ポルトガルの支援を受けたイエズス会が積極的な進出を図っていた。ところが、16世紀半ば以降、スペインの影響が散見し、やがてルソン攻略に至る。また東南アジア=日本航路における倭寇の存在も看過できない。これらの要因が、三国世界の通交ルートにどのように作用したかについて考察する。
研究分野の細分化が進んだ従来の研究のなかで、同一の地平で論じられることのなかった海禁秩序とヨーロッパの東漸の、包括的な理解を試みた。日本は形式的には、明を中心とする海禁秩序の一員であり続けながら、徐々に換骨奪胎し、16世紀に至って事実上離脱する。本来は通交が許されるはうはなく、琉球、朝鮮とは実現しなかった対欧関係が、日本において持続的に成立した原因を、ここに求めることができる。一方、スペインによるマニラ攻略以前に、現地において交易をしていたことに顕著であるように、琉球とならんで日本は東南アジアへの交易ルートを拡大していた。そのなかでムスリム商人とも交易していた事実は、イスラム圏における関係史料の存在の可能性を示唆するもので、研究の深化が期待される。多様な史料による多様な現象の理解を課題のひとつとした本稿においても充分に検討が至った点とはいえず、内陸アジア地域との交渉の可能性とともに、今後の課題としたい。