本論文は、中年期に脳卒中を発症した人々へのヒアリングと参与観察を基本的なデータとし、人生の途中で病いや障害を持つことを、主体の変容という観点から社会学的に考察したものである。病いや障害を持つことは、人が自ら選び取ったものではなく、受身的にこうむる痛みや苦しみであり、当事者にとっては危機と認識されるものである。その只中で彼らは、他者との相互行為によって支えられつつ、従来とは生まれ変わった「新しい自分」になるという変容を遂げる。従来の医療社会学的研究では、こうした受動的で受苦的な主体の変容の過程については十分に議論されてこなかった。本論文では危機の状況に陥りながらもその後の生を<生きる>という当事者の経験を辿ることで、その部分を実証的に明らかにした。なお、本論文で<生きる>とは、客観的観点から生命が維持されるというだけでなく、身体をかけがいのないいとおしいものと認識したり、他者と関わりながら社会的な存在としてあると認識したりするといった主観的な意味を含んだものとして捉えている。
脳卒中は、ある日突然に起こる脳血管の異常によって引き起こされる病気で、後遺症として半身麻痺や失語などの障害が残る。脳卒中の発症によって人々は、身体を自分で把握しているという感覚を奪われ、病人役割や障害者役割を押し付けられて従来の社会生活を追われ、徹底した受動性の中で自己を喪失し、自分が何者であるかという根源的な問いを突きつけられる。このような状況の中で人々は、死を考えるほどの深い苦悩を経験し、自らを最も弱くあると認識する。この危機の状況は、彼らにとって自明な世界の崩壊と捉えられる。彼らは病気になる前は、活動的で能動的なことに高い価値を見出し、自らもそうした性格を持つ主体であり、そのようにあることを自明のことと認識していた。しかし、そのように過ごしてきた人生の途中で脳卒中になり病いや障害を持つことによって、人々にとってそれまで自明で揺るぎないものとしてあった身体、生活、自己は崩壊し、危機と認識される状況が作り出されるのである。この自明の世界の崩壊は、人々がそれまで持ってきた経験のストックを利用しながら<生きる>ことを困難なものにしている。この危機をくぐり抜けながら<生きる>ことを決意する時、病者・障害者本人と医療専門職や家族などの他者とが、互いの本性を変えるような変容を伴いながら、支え合うという相互行為が認められる。本論文ではそこに着目し、検証を試みた。
彼らは脳卒中になった後の生を<生きる>ため、よそよそしくなり自分のものとして把握することができなくなった身体と生活と自己を取り戻し、かつ新たに作り上げてゆく。ここに弱くある主体の立ち上がりが見出せる。彼らは他者から強要されることなく、自ら身体や生活を新しく意味づけながら、かつての活動的で能動的主体とは異なる、受動的で弱くあるがより豊かな「新しい自分」を見出し、病いや障害を持つ生を豊かなものとして捉え返しているのである。その方途は、かつての自明であった世界を相対化し、主体としてありうる可能性を広げていくというものである。こうした主体の変容は、決定的に重要な他者との相互行為(=「出会い」)が経験されることによって促されている。人々は当初全てにおいて喪失感を抱き、自尊心を失い、他者からも尊敬されないようになったと考えるが、やがて互いに敬意を払う関係を作りうる他者と出会うことによって、再び自尊心を取り戻し、病いや障害を持つ現在の自分を肯定できる認識を得る。そうした主体が病いや障害を持つ自分を肯定できる「新しい自分」の可能性を見出しているのである。「新しい自分」は、かつてのように健康で効率よく働ける活動主義的な強い者だけに高い価値を置くのではなく、弱い者や虐げられた者など様々な生の在り様に共感やいとおしさを抱き、敬意を払う存在である。これは生の多様性と言い換えられるが、病いは主体が多様性に開かれる契機になっているといえる。本論文では、こうした主体のあり方が、現代社会における新しい主体のモデルになりうることを示唆した。