「終戦」の政治史的研究 1943-1945

鈴木 多聞

本論文は、いわゆる「終戦史」を「終戦」から遡及しないで理解しようとする試みである。
もっとも、すでに八月一五日の歴史的事実を知っている時点で、このような作業はきわめて難しいかもしれない。無意識のうちに、八月一五日との因果関係を設定してしまいがちである。だが、そうなった場合、結局のところ、日本が「終戦」という決められた道程を歩んでいったかのような語り方となってしまうのではないか。和戦をめぐる政治対立が注目を集めてきた。たしかに、昭和二〇(一九四五)年八月一〇日の御前会議においては、和平派と継戦派が激しく対立した。だが、だからといってその枠組みがそれ以前の政治史に当てはまるとは限らないだろう。
そこで本論文は、次の三点に着目した。
第一に主戦派と和平派の対立だけではなく、主戦派と和平派の内部対立である。主戦派にとって最大の関心事は、軍事戦略の問題であった。そして、決戦の時期や場所をめぐって激しい対立がみられる。客観的には敗戦必至の状況ではあっても、戦勝を追求する軍人にとって、国家戦略の選択の問題は国家の興亡を賭けた問題であった。そして、このような軍事面における対立は、国内体制にどのような影響を与え、結果的に軍事や外交をどのように迷走させたのか。一方、和平派にとって最大の関心事は、軍事ではなく外交の問題であった。そして、外交政略をめぐる諸構想も、決して一枚岩ではなかった。戦争終結のシナリオをめぐる対立や戦後を見越した行動が国内政治にどのような混乱をもたらしたのか。
第二に主戦派と和平派の連続面である。主戦派の中には、無条件降伏ならば玉砕した方が良いというグループもいたが、条件さえ良ければ講和して良いというグループもいた。同時に、和平派ではあっても、より良い条件を求めて戦争継続を支持することはある。よく知られているように、両者の主張は相容れないものであったが、これらは表面的なものであって、その主張の背景には、和平構想や和平条件の違いがあったはずである。そこで、和平構想の内容を、時期、方法、条件の三つのレベルに分類して分析する。条件の問題は時期や方法の問題と密接な関係があるはずである。戦局や国際情勢の変化が、これらの三つの関係にどのような影響を与えたのか。
第三に、将来の見通しの問題である。現状で国体が護持される可能性が高いからといって、ある種の決断がなされるとは限らない。戦争を継続することで、現状より有利な将来が見込めるのであれば、結論を先送りするという選択肢もあり得た。逆に、仮に国体が護持される可能性が低くとも、将来の見通しがきわめて悪いのであれば、ある種の決断がなされることはある。この点は、国民の動向や政治指導者の戦後構想とも密接に関係する重要な問題だろう。
以上のような観点から、本論文は次の三つのテーマを中心的課題として取り上げた。第一に、東条内閣の崩壊過程の研究である。従来、東条内閣期の政治史は、海軍の反東条運動が注目されていたにすぎない。しかしながら、この時期のジレンマと政策決定過程を明らかにすることは、「終戦」を論じる際の手がかりになるはずである。第二に、主戦派の研究である。日本の「終戦」は和平派の視点から語られることが多いが、主戦派が果たした役割はきわめて大きい。主戦派の論理を明確にする必要がある。第三に、御前会議の研究である。従来、「聖断」が注目を集めるあまり、御前会議の政治的位置づけは不十分であった。特に、第一回御前会議だけではなく、従来看過されがちであった第二回御前会議にも注目した。
「終戦」の政治史は、軍事戦略をめぐる対立に始まり、外交政略をめぐる対立で終わったといって過言ではない。戦局の危機が深化するにつれて、政策決定の重点は軍事から外交へと移行した。しかしながら、現実になされた国策決定は、それとは逆方向であった。昭和二〇年五月を境に時期区分すると以下のようなことがいえよう。前半期は、和平派が、主戦派内部の軍事戦略をめぐる対立に乗じて、国内政治工作のネットワークを形成していく過程であった。また、軍事戦略をめぐる対立と外交政略をめぐる対立とが複雑に絡まり合い、戦時内閣は崩壊した。後半期は、主戦派が、和平派内部の外交政略をめぐる対立に乗じ、本土決戦体制の為の国策を実現していく過程である。原爆投下とソ連参戦がなければ、本土決戦に突入していた可能性が高い。

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