本論考は、三願転入と信の構造的連関を、親鸞が超越者とどのように関わったのかを考察することを通して、明らかにすることを目的とするものである。親鸞の思想は、一貫して超越者との関わりを問題とするものである。その関わりをめぐる一連の流れを、三願転入に即して追い、その内実を探りながら、三願転入と信の構造的連関の解明を試みることが本論考の大きな筋道である。
第一章では、三願転入の文、及び『浄土和讃』の解釈によって、三願転入の概要について確認する。三願転入とは、大きく十九願から二十願へ、二十願から十八願へと移り入ることであるが、そのそれぞれの願の内容と、自力と他力の対照を概略として明らかにする。
第二章では、十九願の教えにしたがう人々と、超越者との関係について考察する。十九願の教えにしたがう人々は、行としては、多種多様な善を修めて、また心については、自らの力で菩提心を発し、真実の心で願を発して阿弥陀仏の浄土に生まれたいと願って、阿弥陀仏と出会おうとする。多種多様な善とは、主に、視覚的な仏と〈見て〉出会おうとするものである。しかし、その試みは、視覚性→差別性→遅滞性、及び視覚性→快楽性→自利性という二つの流れから、つまずきに帰結する。
第三章では、二十願の教えにしたがう人々と超越者との関係について考察する。二十願の教えにしたがう人々は、行としては、名号を唯一の行として称えて、心としては、思いを阿弥陀仏の浄土にかけて、自ら称える名号を善として、心から差し向けて、その報いによって、阿弥陀仏の浄土に生まれようとする。しかし、その営みも、心が自力であるので、十九願と同様に、自利、快楽に絡め取られ、つまづきに帰する。あるいは、二十願の教えは、専一に名号を称えることであるが、その行は、多少を問わない平等なものであり、十九願に対する優位が確定し、そこからの移行が勧められる。しかし、その行も、その信じることの難しさから、他によって容易に転変させられてしまい、強い好い縁としての阿弥陀仏の誓願に会わない限り、つまづきに帰する。また、二十願の教えにしたがう人の一部は、行は専らであっても、心が雑心、すなわち、兼ね修める、散乱する心であるので、結局、あれかこれかを行き来して時間がかかり、往生はつまずきに帰してしまう。
第四、五章では、十八願の教えにしたがう人々と、超越者との関係について考察する。十八願の教えにしたがう人々は、他力の信心、すなわち、十八願の至心・信楽・欲生我国の三信によって、阿弥陀仏との出会いが成就する。至心とは、阿弥陀仏が名号として施した真実の心である。信楽とは、第一に、阿弥陀仏が衆生に施した真実の信心であり、第二に、衆生が阿弥陀仏の誓願の始まりから終わりまでの聞いて疑いがない心である。信楽には、時間の一瞬と一つに定まった心という二つの一念がある。欲生我国とは、阿弥陀仏の命にしたがってその浄土に生まれたいと願うことである。これら三信を獲ることによって、往生が確定し、阿弥陀仏との出会いが成就する(第四章)。
第五章では、信楽を、阿弥陀仏の心としての側面と、その衆生の側からの捉え返しという側面とに分け、二つの側面からその内実を見る。前者は、阿弥陀仏が、衆生は真実とは断絶したものと見て施した、煩悩に覆われることのない、完全な大慈悲の心である。後者は、衆生が自らを真実とは断絶したものと信じ、そこにおいて、そのようなものを救うと誓われた阿弥陀仏の誓願を受け入れるというものである。両者は三願転入と相即している。
終章では、三願転入のはざまの内実についての試論を提示する。すなわち、二十願のまとめの私釈と信楽釈、第一深信との呼応関係を指摘し、そこから、十八願転入後も、二十願の心は、親鸞において、今の私の問題として継続し、信の一部として位置づくことが示される。このことを、自力と疑心の連続性に着目して、疑心から言い取るならば、衆生である以上、煩悩・自力・疑心から完全に離れることはできない、その意味で自力・疑心は無くならない。だが、阿弥陀仏の誓願は、そのようなものを救うという誓いである。人々はそのことをそれと疑いなく信じることにおいて、自力・疑心のない阿弥陀仏の施した真実の信心を受け入れる。その受け入れた心に即していえば、自力、疑心は無くなるということになる。その他、自力の心を「離る」あるいは「捨つ」の用例の検討、廻心の一回性の位置づけ、三願転入のはざまの時間についての論を提示し、今後の課題を示す。