先秦時代の家族研究は、日本の家族研究をはじめとする各方面と大きな關連性をもつ。その研究の基礎となるのは、當該時代の傳存文獻や出土史料である。出土史料はその分量の少なさと出土地域・年代の偏りのために補助的に利用され、傳存文獻が中心として扱われてきた。先秦家族史においては、『左傳』は春秋時代、『詩』は西周から春秋時代以前を解明する史料として、漢代以後の注釋による研究が進められつつ盛んに用いられてきた。だがそれらが古文系の經典であり成書事情が不明瞭であったため、古來、今文系の學派によりしばしば僞書として攻撃されてきた。近代に入ると、今文學の流れを汲む所謂「疑古派」により、清朝考證學の傳統と歐米の近代的な學問的方法とによる文獻批判がなされ、古典籍の本文とその注釋の間に違いがあるという指摘もなされた。前近代の先秦家族研究は漢代以後の概念に引きずられていたことになる。これは今日でも參照すべき見解であるが、傳存文獻を僞書と斷定する際間々強引な部分がみられ、今世紀に入ると僞書とされてきた書籍が出土史料として發見されるようになった。ために一種の反動として今日中國大陸の一部にみられるように、先秦古典籍の記事を無批判に史實として利用しようとする動きがみられるまでになった。『左傳』や『詩』もこのような流れの中で、體系だった史料批判が行われずにきたのである。先秦家族史研究もまた多くの場合、他の中國古代史の各分野と同様、傳存文獻の内容を一定程度信用することを前提として行われてきた。史料に對する一種の思考停止である。そのため先秦時代家族の議論は、ともすれば論者の都合のよいよう恣意的な史料解釋が行われがちであった。そして一般に先秦家族史は、それら自體相當曖昧な概念である「宗法制」の崩壞とそれに代わる「家父長制」の成立の時代として位置づけられてきたのであった。これは史料を分析する方法論を缺いていたことによるところが大きい。
そうした状況下で、近年、鶴間和幸、平郎、藤田勝久のように先秦・秦漢の史料に對し、體系的に史料批判を展開してそれらの成立状況を解明し、ひいては當該時代に對する歴史觀を一變させる研究が次々に現れた。鶴間和幸は『史記』や漢代畫像石など、平郎は『左傳』などの戰國文獻、藤田勝久は『史記』を扱った。先秦家族史の研究は各氏が檢討した傳存文獻に依據するところが大きい。從って以上の研究成果は、先秦家族史にも影響を與えるところが少なくないと考えられる。更に近年、中國大陸における新出出土史料は増大の一途をたどり、それが先秦家族史にも大きな影響を與えつつある。そこで本論文では、先秦家族史の重要史料である『左傳』を中心に、それ以外の傳存文獻や出土史料もあわせて檢討した。そうした史料の家族關係部分について、尾形勇や松丸道雄らは「政治性」による作爲を指摘する。平郎は戰國中期において「戰國的正統觀」ともいうべき複數の正統が競い合い、その中から後に經書と稱されるようになったものが成書されたとする。古典籍の編纂作業において、こうした政治性・正統觀が影響を及ぼした可能性が考えられる。先秦家族制の議論は無意識の中にそれらの觀念に影響されていることが想定される。その影響を排する方法として、小倉芳彦にその客觀性から利用され、その後平郎によって修正され、未だ實證部分で批判のなされていない『左傳』の内容分類を使用することにした。そして『左傳』の家族關係部分を洗い直すことを手始めに、先秦家族關係史料の再檢討を開始した。その順序は、まず『左傳』をはじめとする春秋三傳、續いて『左傳』と出土史料、最後に『左傳』に引用された『詩』である。
以上、先秦家族史の再構築を行う上の基礎作業として、先秦家族關係史料の新たな檢討を行った。先秦家族の基礎概念については加藤常賢や江頭廣、史料の政治性に對する觀點は尾形勇や宇都木章、史料の分析手法は平郎、『詩』と文字の關係については白川靜の影響と刺激を受けた。本論文ではこれら分野ごとで個別に行われていた議論を家族史のもとに統合する結果となった。そして本論文の方法論的基礎である『左傳』の内容分類は、家族史の側面からも有効であることが檢證された。それから『左傳』・列國金文・『詩』という先秦家族の基礎史料の成立に戰國中期が畫期となる可能性が認められた。同様に先秦家族制度についてもこの時代が畫期となることが想定された。この問題を更に詰めるには金文や『詩』の包括的・直接的檢討が不可缺である。今後の課題としたい。