デ・フォレの小説作品と読者

佐藤 典子

ルイ=ルネ・デ・フォレは寡作ながらも、言語伝達に対する根源的な懐疑に裏打ちされた作品を遺した。こうした懐疑は必ずしも「語る」「書く」という発話行為だけに関わるものではない。本論文では、発せられた言葉が「受容」という契機を経ることに注目し、デ・フォレの小説作品における「読む」「解釈する」という受容行為の問題を検討する。
第1章で扱う『乞食たち』は、11人の登場人物の独白による多声的な作品である。彼らの言い分は時に食い違うが、彼らはそれに気づかず、それぞれに孤独なまま、満たされない思いを「乞い求め」ている。この唯一の共通点を読者が認識しうるのは、題名及び巻頭に置かれた《ウエストファリアの歌》のおかげである。この作品は、出来事を複数の視点から反復しつつも、そのことによって見えてくるはずの全体像を作品内部で直接に示すことなく、読者という未知の存在に預けている。『乞食たち』という作品全体が、読者に読まれることをいわば乞い求めているともいえる。
第2章では、代表作の『おしゃべり』を読む。語り手の〈私〉は、話題がないのにしゃべりたいという奇妙な衝動について語るが、そのために必要な《共犯関係》とは、決して裏切らない聞き手、すなわち忠実な分身の必要性を示す。ゆえに、テクストに対して事後的に関わらざるを得ない読者は、理想的な聞き手であり、作品自体が、読者を相手にしたおしゃべりにほかならない。こうした物語内容のレベルと語りのレベルの混同は、語り手が絶えず読者の反応を先取りして「虚構の読者」の姿を作り出し、読書の時間と語りの時間とが平行しつつ進んでいるような幻想を与えていることに起因する。現実の読者は、この「虚構の読者」と或る程度まで同一化せざるをえない。
第3章では短篇集『子供部屋』を、のちに削除された『森の中の病人』も含めて読み進める。『森の中の病人』について、デ・フォレ自身は戦時中の「実話」であると言っているが、主人公リュディの来歴について語り手は憶測を交じえているし、虫垂炎のリュディを搬送する際に周到に準備された口実は、病人の死によって一気にその存在価値を失う。また《或る歌手の偉大な瞬間》では、華々しいオペラ歌手の座を自ら捨てたモリエリの謎がさまざまな解釈を呼ぶが、そのいずれもが真実に到達できない。この2篇では、発せられた言葉が真実とのかかわりを失ってゆく様子を見ることができる。続く短篇《子供部屋》では、室内の子供たちの会話を大人が廊下で盗み聞きし、それを語るのだが、子供たちの声が止んだとき、語り手が聞いていた会話は、彼自身の夢と区別できなくなり、発せられた言葉は対象よりむしろ語り手自身を映すものとして機能しはじめる。
《錯乱した記憶》の主人公が、空想を交えた少年時代の記憶を記述するのは、誰かに読んでもらうという契機を通じて、架空の「思い出」に生命を吹き込むためである。《鏡のなかで》第Ⅰ部では、姿を見せず声も発しないルイーズの弟をめぐってルイーズとレオナールの発する言葉が、お互いに相手を、さらには自分を映し出す。第Ⅱ部では、そうした状況を描いた原稿をめぐって、作者の少年と読者となる少年の従姉が激論を戦わせるが、今度はこの原稿が、それぞれの思惑を映し出す役割を担っている。書くことも読むことも、その主体が自己を投影することなしには成就し得ないのだ。このように短篇集『子供部屋』では、読むものと読まれるもののあいだの相互浸蝕が、題材のレベルで表れている。しかし《錯乱した記憶》や《鏡のなかで》には、「読まれる」ことへの関心が明白である。つまりその相互浸蝕が、単なる題材であることを超えて、現実の読書行為にも関わるものとして捉えられているのである。
「語る」行為が、語り手自身の姿を常に反映しているのと同様に、「読む」行為も、単にテクストから情報を受け取るだけでなく、読む人が自らを発見してゆく作業でもある。こうした傾向は、20世紀文学、特にヌーヴォー・ロマンに顕著に現れる特徴である。現代小説の読者は、新奇な手法を用いたテクストに対して挑戦的に立ち向かうよう要請されている。ヌーヴォー・ロマンとデ・フォレの小説作品は、程度の差こそあれ、そういった方向性を共有している。しかしデ・フォレ作品は、そのような読者との関係が単なる小説技法に留まらず、作品の主題自体を形作っており、しかもまたその作品を読む読者によって再生されてゆく、という広がりを具えている。デ・フォレ作品に頻出する「沈黙」は、周囲との関係において解釈を受けるべき対象となっており、言葉を呼び込む力を持っている。沈黙を「解釈」することによって生まれた言葉は、真実によって裏打ちされない虚構として読者の前に提示される。そしてまた、われわれ読者はその虚構を「解釈」することをつうじて、恐らくはまた新たな虚構を生み出す。そこにあるのは言葉による伝達の有用性に対するラディカルな疑念であると同時に、虚構という不確実な手段を通じて読者に託された希望でもあるだろう。

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