道元は仏法の中に本来の自己を求め続けた。この論文では道元が、仏道において実現することを目指した、本来の自己のありかたを考察する。第一章では、道元の「仏法」を考察し、「仏法」が「尽十方界」大の伝法関係であることを明らかにし、第二章では、『山水経』巻から、具体的な伝法関係のあり方を、〈山〉に即して考察する。

第一章
道元は「仏法」を、〈単伝する法〉〈人々の本来持つ法〉〈事物事象の実相としての法〉として捉える。これらは一見違うものに見えるが、道元においては同じ仏法とみなされる。
道元は、単伝する「仏法」を「仏教」として、すなわち「仏が仏を教える」行為として捉える。道元は、「仏が仏を教える」行為は、「尽十方界」という仏教的世界観に基づく世界において、「尽十方界」の住人のすべてによって営まれると考える。道元は、このような「尽十方界」を「経巻」とよぶ。「経巻」としてある「尽十方界」においては、それぞれの存在は、方便として「ことば」を発し、相互に無限の伝法関係を実現する。
道元は、人は本来「尽十方界」の中に様々な事物事象と伝法関係を実現していると考える。しかし、じんかん人間に限定され、「尽十方界」を知ることのできない私たちは本来の自己の営みに気づくことはない。道元は、私たちの捉えることのできない「尽十方界」大の伝法関係を、じんかん人間に限定して可視化するものが、伝統的修行法であると考える。伝統的修行法は、じんかん人間の中に「伝え伝えられていくこと」において、本来の伝法関係を実現すると捉えられる。道元は、このようにだれもが簡単に本来の自己を実現することのできる伝統的修行法を、「妙修」とよぶ。
しかし、仏道は「妙修」だけでは十分ではない。仏道は、「妙修」を超えて、すなわちじんかん人間に限定された伝法関係を超えて、「尽十方界」大の伝法関係を目指していかなければならない。仏道において、修行者は事物事象を本来の主体として発見し、じんかん人間を超えた伝法関係を実現していく。道元は、限定的じんかん人間の関係において固定されている自己と事物事象の意味を超える時に、自己は事物事象と主体として出会い、本来の伝法関係を実現することができると考える。

第二章
『山水経』は、「経」としてある〈山〉〈水〉のありかたを説く巻である。「経」としてある〈山〉は、「尽十方界」の中にあり、様々な存在とともに伝法関係を成就する。道元は、〈山〉が、「いま」、方便として〈山〉自身を「経」として現わし、伝法を成就することを、「運歩」ということばで捉える。「運歩」とは、人の経験を超えた「五蘊」の「刹那生滅」を繰り返す時間のなかで、本来の自己が、方便を用い伝法を成就することである。
道元は、また、本来の自己が「刹那生滅」の中に伝法を実現することは、「進歩退歩」の営みと不可分であることを示す。「進歩退歩」とは、自己が無限に「生死輪廻」を繰り返し、仏道参学を続けることである。
道元は、修行者が「進歩退歩」し「運歩」する〈山〉を知るときに、すなわち〈山〉が「生死輪廻」の中に参学を続け「刹那生滅」の中に伝法を成就することを知るときに、〈山〉は本来の主体として現れると考える。〈山〉が本来の主体として現れるのは、〈山〉が伝法を成就する時であり、その時同時に修行者も本来の自己を実現することができる。
道元は、自己と事物事象が平等の主体として出会うことは、人の経験する「生」を超えた時間、すなわち「五蘊」の「刹那生滅」を無限に繰り返す時間と、自己が無限に「生死輪廻」を繰り返す時間において実現すると捉える。「いま」の「生」は無限の「生死」から捉え返され、「いま」経験されている自己とそれぞれの事物事象に、無限の「生死」が象徴されていると捉えられた。道元は、限定された関係と限定された時間の中に、「いま」の自己と事物事象を、意味として固定することなく、無限の「生死」の象徴として捉え続けることが、本来の自己を実現することであると考えた。