メルロ=ポンティの哲学は、伝統的な主観性の概念の鋳直しを行うことをその最大の目標としている。本論は、彼が主観性の概念にいかなる内実を与えているかという問題について、主観性の成立構造という観点から論じたものである。本論は三部構成になっており、第一部では身体を、第二部では言語を、第三部で存在をテーマとしている。これらはそれぞれ、メルロ=ポンティの哲学の三つの時期にほぼ対応している。

第一部は、メルロ=ポンティの前期を代表する著作であり、彼の主著でもある『知覚の現象学』において、主観性の構造がどのようなものとして提示されているかを検討している。
メルロ=ポンティは知覚の分析に基づいて、主体とは意識や精神であるよりも前にまず身体であり、この意味において、身体は知覚の真の主体でありそれはいまだ無名の非人称的主体であると論じている。この身体の働きのおかげで我々に実存の地が与えられ、コギトもまたその実存の地を土台にしている。主観性は、与えられた実存の地に内属しつつそこから超越を果たすという構造を持っており、この構造は時間性の「脱自」の構造そのものである。
第一部はメルロ=ポンティのこうした主張を概観しつつ、『知覚の現象学』に見られる議論のいくつかの曖昧さを指摘している。

第二部は、主として彼の中期に属するテキストをもとにメルロ=ポンティの言語論に検討を加え、さらにそれを主観性の成立構造の問題と結びつけて論じている。
メルロ=ポンティは言葉と意味との密接な結びつきを一貫して強調している。また、『知覚の現象学』では、言語を身体的所作の一つに含めて考えるという言語観を提示しているが、ここには実存の様式と言葉の意味との連続性という発想が見られる。彼はさらに中期のテキストにおいて、ソシュールからの強い影響のもと、言語と意味との関係をめぐって、言語の間接性や、沈殿と再活性化のダイナミズム、言語の創造における偶然性と理性、あるいはまた、意味の超越の問題と表現の逆説などのテーマについて論じている。
そこでは、意味は表現を介してのみ成立するにもかかわらず、表現が成功するやいなやその表現を超越したものとして現れる、とされている。ところで、言語と意味との関係に見られるこの関係は、「私」という自己再帰的な表現についてもあてはまるに違いない。すなわち、表現された「私」を介して捉え直されることによってこそ、表現的主体が確たるものとして立ち現れてくるのである。だとすれば、こうした表現の働きの内に、主観性の成立構造を見て取ることができるのではないだろうか。

第三部は、メルロ=ポンティの後期のテキストで展開されている存在論について検討を加えながら、主観性の成立構造が存在論の観点からどのようなものとして論じられているかについて、明らかにしようと試みている。
メルロ=ポンティは、言語に関する中期の研究を通して、言語のみならず身体をも共に規定しているような自発性の働きがあるという考え方へと接近していたが、晩年には、知覚、身体、言語、他者などのテーマを〈存在〉の観点から論じ直そうとし、それらを〈存在〉に見て取られる自発性の働きによって説明することを目指していた。これに伴って、主観性についても、やはり〈存在〉から出発して捉え直すという道を模索している。
重要なのはやはり身体であり、知覚である。知覚は運動によって裏打ちされているのだが、運動において身体は動かすものであると同時に動かされるものであり、こうした運動の再帰的構造の内密さにおいて自己が構成されている、とメルロ=ポンティは考える。主観性が成立するのは、まさしくここにおいてである。この自己は身体を介して〈存在〉へと開かれており、この〈存在〉は主観性の成立基盤ともなっている。
私が他者の経験を持つことが可能となっているのも、この〈存在〉という次元性を基盤としてに他ならない。メルロ=ポンティはこのことを、「間身体性」という概念によって論じている。私の右手と私の左手の間の可逆的な関係が、私の手と他人の手が触れるという場面においても見て取られる。こうした身体性のレベルにおける相互性に基づいて、私は他者の身体に、私と同じ仕方で存在している他者を認めることが可能となる、とされる。またこのことが、私と他者との区別は〈存在〉の「裂開」によって成立したのであり、〈存在〉は他者の超越の基盤でもある、と捉え返されるのである。