本論では、コンディヤックの分析的方法を中心に扱った。彼の言う「分析」とは、対象を構成要素まで分解し、そこから再構成することで、その対象について理解する方法である。彼は、その際に見出される構成要素とは感官への直接の所与である「単純観念」だと言う一方で、観念は記号によってのみ成立するとも主張する。そこで第3章では、観念を巡る彼の混乱した記述の整合的な理解を試みた。結論を言えば、観念とは全て抽象観念であり、彼が「単純観念」という言葉で表現したかったものとは、現前する知覚において抽象観念の名前で名指される部分である。抽象観念とは複数の知覚的対象の間で共通点として見出された部分であるが、これは対象を操作してその結果を観察するという実験的な仕方で設定されるものである。それゆえ抽象観念は対象の本質を捉えるものではなく、人間と対象の間の関係によって設定されるものである。
第4章では、観念は記号によってのみ成立するというコンディヤックの主張を検討したが、記号と観念の関係についての議論では、彼はあたかもあらかじめ成立している観念に記号をあてがうかのように論じる。そこで我々は観点を変えて、記号が成立する場面を検討した。彼の議論によると記号は複数の人間が共同作業をする中で発生する。我々はこうした彼の議論を補って考察を進め、記号は、行動を通じて相手を理解し、また自分を理解させることで成立することを論じた。すなわち、相手に対して何か行動をしてみてその結果を観察するという、第3章での実験的手続きと同様の仕方で、行動による記号とそれが指示する対象とが共に成立してくるのである。ただしこうした枠組みでは、他人の行動が物理的な運動ではなく行動であるということの理解の成立や、記号の状況からの切り離しがいかにして達成されるのかが必ずしも明らかではない。そこで我々が指摘したことは、記号の習得の場面ではこの二点が共に容易に達成されることである。しかも習得の場面において大部分の観念は記号を契機として形成される。すなわち、ここに記号が観念を形成する第二の場面が見出されるのである。
第5章では、記号は観念を自由に扱う手段であるというコンディヤックの主張を取り上げた。彼の議論の枠組みでは、人間精神とは機械的に形成され作動する観念連合のメカニズムにほかならないのだが、こうした枠組みでは状況への従属状態と自由との間に本質的な差異を設けることができない。それゆえ、彼が「記号は人間を自由にする」と主張するにせよ、記号が人間を何か自由ならざる状態から自由へと本質的に変化させると解釈するわけにはいかない。しかるに彼が「記号の自由な扱い」と言うときに念頭に置いていた具体的な事態とは、記号に慣れ親しむことでそれを易々と使用することであり、「記号による観念の自由な扱い」とは、かくして「自由に」扱えるようになった記号によって、対象が不在のときにも観念を操作することなのである。コンディヤックは、こうした使用法に適した「うまく作られた言語」を構想する。これは、構成要素の記号の組み合わせによって複雑なものの記号を形成するような言語であり、記号の組み合わせ規則が実験を反映する形で作られたものである。こうした記号は実験の代理として働くことができ、自在に分析を遂行するための手段になる。
第6章では、分析の結果形成される体系において、観念が配列される順序が何の順序であるかを検討した。考えられる第一の解釈は、全ての認識は知覚に由来するという経験論の原理に基づいて、知覚を出発点として観念を形成ないし理解すべき順序を示すという解釈である。第二の解釈は、抽象観念を組み合わせて具体的な現象のモデルを再現する順序を示すという解釈である。こうした解釈に従うと、コンディヤックの「心理学」は、人間精神の機械論的なモデルを形成しようとするものであると解釈できる。こうした発想は、心理学に対する科学的なアプローチを開くものである。以上の二つ体系は互いに異なるものではであるが、両者は共に何らかの物事を理解するための順序である点に関しては同じである。実際コンディヤックは両体系を区別せず、両者における順序は共に「既知から未知へ」と向かう理解の順序であると説明する。とは言え、彼の議論に従うなら「既知」と「未知」との間に本質的差異を設けることはできず、両者は人々の間の共通理解の有無という点でのみ異なる。結局のところ、彼の言う分析が働くのは、既にいくつもの共通理解が成立しており、それを元に共通理解できる事柄を増やしていく場面、共通理解が成立しているものが疑われたときにはそれを検証する場面なのである。