従来の「カンボジア史」は、フランス植民地学者が創出し、先史時代から現在に至る1つの国の歴史として叙述されてきた。そして、最盛期とされたアンコール研究がカンボジア研究の主題となり、ポスト・アンコール史は全く未解明なままに残されてきた。本論では、カンボジアの『王朝年代記』を主史料とし、法典類、碑文、外国人による旅行記・地誌、シャムとベトナムの年代記などの従来の史料の他に、フィールド・ワークによって採集した口承伝承を補助史料として、従来の「カンボジア史観」の正当性を検証し、「ポスト・アンコール時代のカンボジア」の地理的実体は何であるかに考察を加え、以下の結論を得た。
14世紀は最後のサンスクリット語碑文が刻まれた時期であり、『王朝年代記』の記述の開始時点、ニピエンナボット王の治世が置かれる時期でもある。この14世紀から、ヨーロッパ人による記述が見られるようになる16世紀までの200年間については、同時代史料が全く存在せず、歴史学的な手法に拠ってこの間の歴史を明らかにすることは不可能である。しかし、この200年間にアンコール的な世界は完全に消滅し、それとは異質な、新しい世界が出現してきた。すなわち、アンコール時代とポスト・アンコール時代の間には、明らかな断絶が認められる。
16世紀後半には、トンレ・サープ南西岸に位置するロンヴェークと、メコン東岸に位置するスレイ・サントーの、2つの勢力圏の存在が確認できる。スレイ・サントーは、恐らく14世紀後半に明に朝貢した「巴山」王権を前身とし、メコン航行権の支配を基盤とする勢力であった。他方ロンヴェーク出自は明らかではないが、トンレ・サープ南西岸陸路と密接な関わりを持ち、またこの陸路を通して、常にシャムの影響が及ぶ圏内にあった勢力である。17世紀初頭には、トンレ・サープ周辺域--ロンヴェーク=ウドン--ポニェ・ルー--プノム・ペン--メコン河というネットワークの出現によって、ロンヴェーク=ウドンの勢力が優勢となった。しかし、17世紀の後半にロンヴェーク=ウドンの王権が分裂し、ベトナムがこれに介入し、またメコン下流部に明の遺臣を名乗る中国人の武装勢力が入植すると、これらと結び、ロンヴェーク=ウドンと対抗しうる拠点として、スレイ・サントーが再び浮上した。
17世紀末にスレイ・サントーの勢力が消滅したのとほぼ同時期に、中国人勢力玖がシャム湾岸のハーティエンを興し、18世紀後半には現在のカエト・ター・カエウからシャム湾岸までの範囲に一つの勢力圏を作り上げ、ヴィン・テ運河の前身となる水路でプノム・ペンと結び、カエト・ター・カエウを経由する陸路で、ロンヴェーク=ウドンと結んだ。しかし、1771年のターク・シンによる第一回目の侵攻で、ハーティエンは壊滅し、シャム湾岸とロンヴェーク=ウドン王権の関係は中断した。また天賜のハーティエンと同時期に、トンレ・サープ湖北岸のコムポン・スヴァイを中心とする一つの勢力圏が出現し、最初はメコンを経由してバサック、ベトナムの勢力と結び、18世紀末からはナコン・ラーチャシーマー--アンコールのシャムの勢力と結ぶなど、独自の動きを見せた。
18世紀末から19世紀中葉までに、(1)トンレ・サープ南西岸--ロンヴェーク=ウドン--プノム・ペン--メコン下流部のルートと、(2)ハーティエンを経由するシャム湾ルートに加えて、(3)トンレ・サープ北岸--メコン上流部のルートが、シャムとベトナムの勢力圏を結ぶ「回廊」として立ち現われてきた。そして、両勢力の前線が揺れ動いた、ポーサット、コムポン・スヴァイからチャウドックの間、コムポン・サオムからコムポートの間が、アン・ドゥオン王の「カンボジア王国」の原型となった。
19世紀中葉に即位したアン・ドゥオン王は、ウドン王都を、(1)トンレ・サープ南西岸陸路、(2)トンレ・サープ河川港コムポン・ルオンへの陸路そして(3)コムポートへの陸路の結節点として建設し、国際港としてのコムポート開発に努めた。ウドンの主王系は、トンレ・サープ南西岸からシャム湾にかけて広がる一連の陸路ネットワークの主宰者となり、ベトナムの勢力圏を経由しないで海に至るルートを確保した。しかしこのネットワークは、同王死後、フランスがサイゴンを開港し、カンボジアを保護国化したことで中断した。
ロンヴェーク=ウドンの主王系は、(1)トンレ・サープ南西岸域を勢力圏としていたが、(2)メコン東岸、(3)トンレ・サープ北岸、(4)シャム湾岸には、それとは別の勢力が生成消滅した。これら在地の勢力は高度に自立性を持ち、ロンヴェーク=ウドン王権に限らず、シャムやベトナムの勢力とも関係を結んでいた。ロンヴェーク=ウドン王権も、18世紀後半の一時期にシャム湾岸、19世紀中葉のアン・ドゥオン治世にシャム湾岸とメコン下流部に対する関心を示したが、一貫して、トンレ・サープ北岸およびメコン上流部に対する関心は非常に薄かった。さらに、水路を制したベトナムあるいはフランスに後援された場合にだけ、プノム・ペンに王権が立った。すなわち、商都プノム・ペンは、トンレ・サープ--メコン水路の要衝であり、陸路に拠ったロンヴェーク=ウドン王都とは、系統を異にすると理解すべきである。これらを統合し、現在のカンボジア王国に直接結びつくような、プノム・ペンをセンターとする水陸のネットワークおよび領域的かつ一元的な支配圏の基礎を確立したのは、19世紀後半以降のフランス植民地主義であった。