証空の浄土教研究

ト 玉盞(【にすい】に余)

本論文は証空(1177-1247)の教学思想の解明を目的とするが、彼の教学思想の展開過程である初・中・晩の三期にそれぞれ生み出された『自筆鈔』、『他筆鈔』、『積学鈔』の三鈔を主たる考察対象とする。それによって証空が善導の教学を受けとめて自己の教学を構築していった軌跡を提示することを、論述の方法としたい。

証空は、善導『観経疏』「玄義分」をめぐって、一代教法の法門分類(教判論)、衆生の存在相(機根論)、『観経』の二尊教、衆生の得益(証得往生)という課題を主として論じている。まず、一代教法の法門分類について、『自筆鈔』では行門・観門・弘願という三の分類を設けて、調機の次第で言えば、自力行門の機が他力観門へと導かれ、最後は弘願に帰するとし、教法の次第で言えば、逆に一切の根源である弘願から観門が開かれ、さらに方便の行門が展開される、と把握される。『他筆鈔』になると、顕行・示観(行門・観門に当たる)、正因・正行(弘願に相当する)という独自の概念が用いられ、『積学鈔』では、前の二鈔の用語を融合的に用いて解釈が進められている。

機根論について見るならば、証空にとって、仏性とは仏と衆生との交接点である。証空は、弘願の体から理性の弥陀をたてて仏性と称し、すべての衆生に遍満していると考えるのであるが、能化の仏と所化の衆生との差別はない、とする。

『観経』の二尊教については、証空は『観経』の「観」字に釈尊・弥陀二尊による教化を説く経典であることが示されていると考える。法を説く側の釈尊からいうと、「観」は能詮の義であり、釈尊は能詮の観仏である。そして説示される内容は「観」に収められた無量寿仏の弘願の体(仏体)であり、弘願は所詮の念仏である。法を受ける衆生の側からいうと「観」は領解の心であり、三心である。

『観経』は「序分」においてすでに「一経の本意」を予説しているとする証空は、それが特に欣淨縁の密益に託されていると理解している。つまり、法の発起とされる欣淨・顕行・示観の三縁の最初である欣淨縁に込められた「密」益は、続く顕行縁で釈尊が散善を自開し、さらに示観縁で韋提希に「汝是凡夫」と諭すことをまって、機に凡夫としての自覚(自分が凡夫であると信ずる心)が生じ、これにより他力観門(示観)の仏意が領解され、衆生往生の行は弥陀の弘願であるという欣淨縁の「密」益が顕らかになるのである。

また、証空は顕行縁の経文「広説衆譬」に、往生の行である弘願の体(所詮の念仏)を説き顕わす能詮の義を読みとる。この弘願の体こそが往生の行であるという証空の見地からすると、諸経及び『観経』の文面に説かれるあらゆる善(衆生の行)は往生の行ではない。『観経』で散善が説かれることによって顕らかになるのは弘願の体としての往生の行なのである。つまり、散善とは弘願の体、すなわち仏体としての念仏を説く教なのである。そして示観とは、釈尊の側には弥陀の弘願を説示すること、能詮であり、衆生の側にはその説示を領解し、三心を発し、往生の決定を得る深信である、という。

『観経』の中心となるのは十六観よりなる観法であるが、証空は十六観の「観」を「観門」と理解する。この観は仏智であり、それが言葉として顕われたのが十六観の佛語である。このような他力能詮の佛語(観)は修行の方法ではなく、弘願の体を説き顕わす能詮であり、したがって定善の十三観は弥陀の依正二報の功徳を説き顕わしている、と主張される。

証空によれば、散善の三観は弥陀の利生を顕わしている。散善を論ずる過程で明らかとなったことは、以下の五つにまとめることができる。
(1)散善の要である三福・九品はともに弘願を説き顕わす能詮である。
(2)三心釈。凡夫が発する三心は行を浄めるから雑善・雑行の失がなくなり、諸行はすべて往生の助業である正行となる。したがって、三心を領解すること(=発すること)によって弥陀に帰し、往生が決定する。
(4)念仏。『観経』の念仏とは阿弥陀仏に帰命することであるが、念声是一に先立って三心具足の帰命(信心)が要求される。また、仏体は衆生の往生行である。
(5)証空は證得往生から即便往生と当得往生との二種往生説を立てる。すなわち平生の往生を即便往生と名付け、臨終時の来迎を伴う往生を当得往生と呼び、一人の念仏者の上にこれら二つの往生を説くのである。

以上が本論文の概容であるが、善導や法然の思想を忠実に継承しようと努めつつも、「道理」、「義」、「文証」の三つ及びそれらの相互関係を重視し、思考の筋道とその実証を重んじる証空は、結果的に独自の思索を進めて、多くの特徴をもつ教学体系を築いたのであるが、一人の凡夫が釈尊の能詮によって領解し(三心を発して)弘願に帰することによって弥陀の救済に与かる、という思想は、証空の生涯に一貫しているのである。

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