律令制下の諸国の行政を考える上では、行政運営に伴って残された史料自体を追求することによって明らかにできる部分はまだ多く、八世紀については、まだまだ基礎的な部分において、十分な検討がなされていないと思われる。本稿では、この実相を解明することを通して、諸国行政のもつ歴史上の意義を考える。

諸国行政のための国府機構形成の前提となった、単位としての「国」は、孝徳朝に常駐地方官が派遣されたことを成立の端緒として、天武朝の国境画定事業を経て、令制国としての制度的側面が整えられた。国境画定事業の結果、国造を媒介とした地方支配から、確立した令制国を支配する体制への原理の転換が起こり、同時に成立した七道制によって全国的な地方運営体制が恒常的に推進されていくこととなった。

八世紀の諸国の行政体に関しては、「国府」の用語が一つの行政体をさす認識を窺うことができる。国府においては、公文作成作業を発展のきっかけとして部局が形成されたことを想定することができる。国府には文書行政に関わる多くの施設が見られ、こうした施設を持つ空間が形成され始めたのは、八世紀前半のことと考えられる。八・九世紀の国府における行政機構の構成員を、中央からの派遣官と在地出身者の二つに大別して整理することができ、在地者の文書行政における役割を再評価するべきである。

国府の書生の役割は公文作成の上での書写作業だけではなく、日常の文書作成をも含めた幅広いものもので、天平期の正税帳を検討すると、多くの場合は国司官人の自署以外のすべての部分について、継目裏書の筆記まで書生によって行われていたと考えられる。また、郡司の記名に自著風のものも見られるが、これは郡司が自著した原史料うを素材に、書生によって記入されたものとみられる。計算上の便利さや、私富の獲得を目的とした可能性のある作為も公文に施されていることがわかる。

八世紀の天平年間には、四度公文の諸国司からの進上にあたって、公文目録が作成された。この目録の存在は、弁官と国司との間が、中央と地方との官司機構上の文書行政ルートであったことを物語る。また、同じく天平年間には、国司の逓走にあたって遊牒と返抄によって隣国国司どうしが確認し合うシステムが確立し、在京官司からの符がこれによって送られた。逓走においては、在地者の参画する恒常的な体制によって、逓送制度が支援されていたことが重要である。国司部内における文書伝達についても、郡司が拠点的な機能を果たし、国府も在京官司から諸国にあてて符を下す方式と同様に逓送制度が確立していたことが窺われる。現存する出雲国計会帳と伊勢国計会帳からは、唐の計会制度が十分に理解されておらず、またそのような状況下で作成された計会帳も、実際の機能性には疑問がもたれ、日本においては、計会制度は律令制導入当初から有効に機能していなかったと考えられる。文書保管についての公式令文案条の運用の実態からも、唐の文案制度に対する理解がなく、これにかわって日本独自の考え方が模索されたことが考えられる。

国府の成立は一国の規模の行政事務処理を行う機構の成立であり、在地者の活動によって国単位の結びつきが機能し、こうした国単位による在地者の活動の発展が、律令国家のシステムとして想定された郡司による支配の形骸化をもたらしていったとみられる。地方支配における「国」制度の確立は、八世紀前半の国府の形成をもって画期とすることができる。