『哲学雑誌』目次
第118巻790号「記憶」(2003年)
ソクラテスの記憶 −−「対話篇」による哲学のスタイル |
納富 信留 |
記憶としての倫理に向かって −−アリストテレスの記憶論 |
高橋 久一郎 |
「至福の生」の記憶 −−アウグスティヌスにおける「真理の倫理学」の可能性 |
荻野 弘之 |
永遠真理の記憶と想起 −−ホッブズ vs. デカルト |
伊豆藏 好美 |
記憶の可視化 −−忘れやすさからのライプニッツ的展開 |
佐々木 能章 |
想起の内容と対象 −−われわれは何を想起しているのか |
中島 義道 |
遂行的記憶 |
河本 英夫 |
「もの」、「こと」、過去 |
伊藤 笏康 |
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<<研究論文>> |
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現代自然法論における人間的善の構想 −−「濃密で曖昧な善の概念」 |
山本 芳久 |
時間論としての「第一類推」 |
滝沢 正之 |
第117巻789号「哲学とイデオロギー」(2002年)
イデオロギーとレトリック −ホッブズ『リヴァイアサン』の誕生− |
秋元 ひろと |
ライプニッツのイデオロジー |
酒井 潔 |
批判哲学と崇高のイデオロギー |
牧野 英二 |
イデオロギーとイデオロジーの間 −デステュット・ド・トラシの教育論をめぐって− |
村松 正隆 |
イデオロギーと観念論 |
柴田 隆行 |
イデオロギーと知的な政治的闘争 |
木村 競 |
誰が「洗脳」されていないのか −「世界疎外」と近代イデオロギー− |
佐藤 和夫 |
脳死とイデオロギー |
飯田 亘之 |
合意形成と「立場」の概念 |
桑子 敏雄 |
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≪研究論文≫ |
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ベルクソン哲学における仮構機能fonction fabulatrice, fabulationについて |
谷口 薫 |
ヘーゲルにおけるカント理論哲学の批判 |
植野 公稔 |
第116巻788号「はじまり」(2001年)
はじまり |
宮本 久雄 |
自然学第一巻 |
今井 知正 |
Causa sive ratio −はじまりの回復/回復のはじまり− |
村上 勝三 |
どこから哲学をはじめるか −哲学のことばとカント的相対主義の可能性− |
伊古田 理 |
ルキエと開始の思考 |
村瀬 鋼 |
行為の始まりと終わり −自由の非所有に関する試論− |
古荘 真敬 |
時制と部分論理 −始点としての現在− |
加地 大介 |
存在への問いについて |
菊池 惠善 |
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≪研究論文≫ |
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ハイデガーの「メタ存在論」構想 |
轟 孝夫 |
原因としての<実体> −アリストテレス『形而上学』Z巻第17章における<実体>探求− |
岩田 圭一 |
第115巻787号「ユートピア」(2000年)
アウグスティヌスと千年王国論 |
桑原 直己 |
最高善の在処 |
小泉 善之 |
公共性のユートピア −「理性の公共化」と「都市的」空間の問題− |
加藤 泰史 |
大審問官のいるユートピア −カント歴史哲学に関する覚書− |
下野 正俊 |
ユートピアをめぐるカントとヘーゲル |
笹澤 豊 |
ユートピアを封じること −フーコーのアクチュアリティ− |
檜垣 立哉 |
どこにも向かわない時間と<今ここ>の意味 |
伊佐敷 隆弘 |
ユートピアの侵略 |
雨宮 民雄 |
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アドルノのフッサール批判をめぐって |
松井 賢太郎 |
神なき予定調和 |
山根 雄一郎 |
オーギュスト・コントの形而上学批判 −スピリチュアリスムとの対決のなかで− |
村松 正隆 |
第114巻776号「相対主義は克服できるか」(1999年)
相対主義は克服できるか −プラトン的観点から− |
天野 正幸 |
コギトの確実性と論理的説明 |
持田 辰郎 |
視点に立つということ |
米山 優 |
近代の命運としての相対主義 −ディドロ『ブガンヴィル航海記補遺』を読む− |
佐々木 健一 |
「美的なもの」の普遍性について −カント美学における<形式/質料>問題を中心に− |
長野 順子 |
生き生きした現在への反省 −認識論と存在論との狭間で− |
榊原 哲也 |
相対主義的真理観と真理述語の相対化 |
飯田 隆 |
社会構成主義と相対主義 −「サイエンス・ウォーズ」の哲学的問題− |
横山 輝雄 |
相対主義と実在論の極限における一致 |
入不二 基義 |
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日常言語による行為の実現 |
三好 潤一郎 |
ジェフリー条件付けとリーヴァイによるジェフリー条件付け批判について |
鈴木 聡 |
第113巻785号「ギリシア・中世哲学研究の現在」(1998年)
中間者の現実 −アリストテレスの視点から− |
山本 巍 |
ソクラテスは何をしたのか |
篠崎 榮 |
形相から現実態へ |
渡辺 邦夫 |
アリストテレス哲学における方法論 −形而上学の可能性を開くもの− |
千葉 恵 |
哲学者とその影 |
納富 信留 |
人声天語 −初期中世における言語理解とアンセルムス− |
清水 哲郎 |
真理と善の間に −超越概念から見た聖トマスの認識理論− |
花井 一典 |
ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性とアヴィケンナの影響 |
山内 志朗 |
トマス・アクィナスにおける人間の「ペルソナ」(persona)の理解 |
加藤 和哉 |
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「私」が「思惟する事物」であること |
吉田 知章 |
「これ」の把握と「受容者」の導入 −プラトン『ティマイオス』48e2-52d1の存在論− |
荻原 理 |
語られたものの現前と非現前 −ハイデガーの言語論の一側面− |
古荘 真敬 |
第106巻778号「記号と現実」(1991年)
言葉の《明らかさ》と《確かさ》について |
藤田 一美 |
M.エックハルトの類比言語用法が披く現実 |
宮本 久雄 |
自己を制作する言葉 −−プラトン言語論序説−− |
納富 信留 |
コンディヤックの記号論 |
松永 澄夫 |
ヘーゲルにおける「言語」と「現実」 |
高山 守 |
ヘーゲルにおける「仮言推論」と「活動性」 −−ライプニッツとの関連で−− |
岡本 賢吾 |
言語の自立性について |
貫 成人 |
フッサールの言語論 |
李 洙正 |
フッサールにおける言語と現実 −−現象学的記述について−− |
榊原 哲也 |
フッサールにおける普遍的想像の可能性について |
寺田 誠一 |
メルロ=ポンティにおける身体の知覚経験について |
檜垣 立哉 |
行為の主体 |
伊藤 笏康 |
指示的確定記述と意味成分分析 |
岩倉 孝明 |
第90巻762号「体系と方法」(1975年)
哲学の体系構成と経験の基礎づけ並びに方法について |
藤田 健治 |
人間の立場の哲学 −その体系と方法− |
岩崎 武雄 |
体系小考 |
山崎 庸佑 |
体系の可能性 −キルケゴール、ニーチェを通じて− |
遠藤 徹 |
言語構成の方法と問題移行 |
石垣 寿郎 |
個体について −若干の予備的考察− |
菅野 盾樹 |
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≪研究論文≫ |
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アリストテレスにおける自然(中) |
岩田 靖夫 |
EΠIΣTHMH −イデア認識の問題− |
天野 正幸 |
世界の私性格について=意識と世界とを巡る考察 −デカルト『省察』に拠る |
松永 澄夫 |
概念の根源的分割について −ヘーゲルの判断論− |
山口 祐弘 |

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