第五回BESETO哲学会議
(グローバルCOE「死生学の展開と組織化」からの派遣事業)
鈴木 泉 (哲学研究室・准教授)
GCOE死生学の展開と組織化 ニューズレター NO.28内
景山 洋平 (哲学研究室・博士課程)
BESETO哲学会議で発表させて頂くのは今回の北京会議で三回目となる。ソウルで行われた前回の報告書では、中韓日の地理的近さは三ヶ国の学術交流の動機となる、と結んだ。だが、今回の参加でBESETOの意義に関して心境が変化したので、その点を背景として、会議の内容・人的交流について報告したい。
ホスト校の北京大学が提起した統一テーマは、「人間的生における合理性(rationality in human life)」である。各発表者はこの主題を自由に解してよい。そこで報告者は、世界経験の構成条件における拮抗した主題として「合理性」と「人間的生」を捉え、ここから、我々が認識や実践・制作などの仕方で世界に関与することの根源的条件に孕まれた緊張関係の問題として、北京大学の提案を受け止めた。経験一般の成立条件を巡る典型的抗争は、例えばカントと、カントを解釈するハイデガーに見られる。周知の通り、カントは純粋悟性概念の経験への適用における構想力の役割を重視するが、その際、概念使用の権利はあくまで統覚との関係で捉えられる。言うなれば、合理的に判断する主体の介在が必須のものと看做される。これに対し、ハイデガーは、構想力の機能を極大化する彼の有名な解釈により、経験一般の成立条件を純粋な「事実問題(quaestio facti)」として捉える。ここには、あらゆる合理的正当化に先立ってこの世界が生成し、我々の人間的生はその内に投げ込まれている、という世界観・人間観が表れる。「出来事(Ereignis)」という彼の後期の根本概念もこの延長にある。然るに管見では、合理性と事実性の抗争は、単なる対立でなく、両者の不可分な絡み合いとして受け止められねばならない。則ち、合理的思考はそれが拠って立つ基盤において常に事実性に支えられるし、反対に、事実性の思考は、世界の偶然的生成をそうしたもの《として》捉える際に事実性を合理的知解の埒内に回収している。
’Heidegger’s Concept of “Himmel” as Contextualizing Disposition in Eventual Experience’と題した今回の論稿で報告者が試みたのは、後期ハイデガーの「天空(Himmel)」という一見不可解な概念の読解を通じ、徹底化された事実性の思考の一事象内容を析出すると共に、この思考の枠内で合理性の健全なあり方を模索することである。結論だけ述べれば、「天空」とは、我々と世界の交流が生成する正にその瞬間に、我々が主体的に応答し得るのに先立って、この交流に与る全ての存在者がある文脈的連関へと接合されようとする傾向性を意味する。前期ハイデガーも、能動的な意味構成に先立つ世界の有意義的分節性を既に認めるが、この際の分節性は、事実性において行動する我々自身に構造的に条件付けられる。だがこれでは、実際に我々が何らかの仕方で世界関与に没頭する際に、現在行っていることとは全く関係のない想念がフッと湧き上がったり、イノベーションにより今まで出来なかったことが思いがけず出来るようになったり、あるいは逆に老化や障害により従来の能力がいきなり喪われてしまう事態を適切に記述できない。事実的経験のこうした繊細な陰影を分析する概念として「天空」は有用である。だが、「天空」の解明には方法的困難が付き纏う。何故なら、これは観測者自身がその都度巻き込まれる事象であるのに、「天空」を「天空」《として》記述した時に観測者はその事実性から乖離するから。文中では、一方で、この事態そのものは世界経験の一側面を固定してその合理的探究を可能にする利点を持つが、他方で、現実に生じる経験との接点を喪わない為に、記述の立脚点は不断の自己変容に開放されねばならないとして、「可塑的な合理性」の必要性を主張した。当日は時間の関係で後半部分を省略したが、この点が東京大学の石原孝二先生に頂いた質問への解答である。また、北京大学の劉哲先生から、「天空」を独立の範疇として記述したのでは報告者自身が批判した独断的実在論に結局コミットしないか、と質問を頂いた。これに対し報告者は、自己性に存在論的に依存しない異他触発を独立に範疇化する事は分析の言語的性格からして不可避なので、重要なのは、経験の陰影という総体的事象の一アスペクトとして「天空」概念を活用する事だと解答した。
他の研究発表も、統一テーマに関する多様な立場を示して興味深かった。色々な方に質問させて頂いたが、最も合理性に定位した議論をしたのはソウル大学のLee Jisun氏の’Human rights in a democratic constitutional state’である。ハバーマスに定位して、立憲国家は正にその立憲的な制度故に人権概念を前提する、と氏は主張した。これに対し、報告者は、概念レベルで立憲国家と人権の連関を論証できたとしても、例えばドイツで現在大問題となっている不法移民のように事実的に共同体の構成員であるのに法的システムに登記されていない人間の「人権」は如何に確保されるのか疑念を呈した。また、合理性と事実性の狭間に立つ論理を展開したのは、北京大学のZhao Men氏の’The Certainty of Perceptual Experience in Husserl's Analysen zur Passiven Synthesis’ である。フッサールの受動的綜合概念が知覚経験の確実性を保証するには不十分である事、確実性の問題は時間意識の自己構成にまで遡るべき事が、氏の主旨である。これに対し、報告者は、時間の自己構成とは常に既に我々がそれを存在している事実性の事象なので、それ自体は認識論的な確実性とは別問題なのでないかと疑問を呈した。最後に、最も事実性に定位した議論を行ったのは東京大学の鈴木泉先生のドゥルーズに関する発表である。経験的なものの不当な拘束を受けない真に超越論的な次元を剔出し、「非人間主義」の可能性を打ち開くべき事を先生は主張された。これに対し報告者は、経験的次元を被説明項として限定せずに超越論的次元を語る場合、その主張は正当化の為に依拠できる審級を持ち得ず、ただ「超越論的なものがある」と断言するだけになると疑念を呈した。ちなみにこの危険は、超越論的アプローチを放棄した後期ハイデガーの「出来事」の思考にも当て嵌まるが、ハイデガーの場合、「出来事」と「脱出来事(Enteignis)」は不可分であり、「出来事」自体の内に存在者的な固定化・限定化の傾向性が見定められる事は銘記されてよい。
こうして三年に渡り東アジア三国の若手研究者の共同討議に参加して感じたのは、顔を合わせ、言葉を交わす生身の交流からこそ共有の世界が新しく生まれるという事である。無論、哲学は東アジアに限定されない普遍的営為であり、その探究は必ずしも我々の地域の文化的伝統と直接に結び付かない。それ故、昨年の報告書ではBESETOの意義を共同研究を行う地理的近接に求めた。だが、今回中韓の旧知の友人と、そして新たに知己を得た方と議論を交わす中で、「我々は新しい言論の世界を作り上げているのだ」という実感が生まれた。これは、既存の伝統や客観的真理の普遍性とは異なる、生身の討論を積み重ねて初めて生まれる具体的普遍の意識である。これは、お互いの主張を突き合わせる事を通じて自己をしなやかに変容させる「人間的生における合理性」の一つのあるべき姿だろう。ドイツ留学中の報告者は、エラスムス制度など欧州域内の若手の学術交流の盛んさをよく羨ましく思うが、故郷の東アジアにもこうした場が生まれつつある事がとても嬉しい。とは言え、血の通ったコミュニケーションはそれを維持する人間の努力なしにはあり得ない。北京大学の方々の心のこもった歓待はその事を確信させるものだったが、その一部を紹介したい。最終日の晩餐の後、劉哲先生と報告者でBESETOのあり方と哲学について話していた。今回ホスト校の仕事を取り仕切った先生は、2009年のBESETO東京会議で知り合って以降、その後再会した香港でも、報告者の如き学生に親しみをかけてくれていた。その彼は、学会参加者に配られたタンブラーは自らデザインしたものだと嬉しそうに語った。報告者が「内側に私個人の名が貼られていたのが嬉しかった」と言ったら、彼は「初めは容器の底面に貼ろうとしたが、それでは実際に飲む時に名前が見えない。だから、口元に貼ることにしたのだ」と即答した。このように誠実な心配りを受けては感動するしかない。こうした誠実さこそが、まだまだ発展途上の中韓日の学術交流を育て上げる基盤となるだろう。身を持ってこの事を示してくれた劉哲先生はじめ北京大学の皆さんに心からお礼申し上げたい。
今回のBESETO会議への参加は、倫理学研究室からの初の参加、しかも私にとって初の海外ということで、いささか緊張しつつ臨んだものだった。出発当日から翌日にかけて風邪をひいたこともあり、当初は異国の空気を楽しむ余裕もなかったが、帰国する頃にはこの会議に参加できて良かったと素直に思うことができた。
2日間の期間中は多くの興味深い発表を聴くことができたが、特に私自身の問題関心との関連で興味深かったものを1つ挙げるとするならば、それは北京大学のZhong Lei先生による発表ということになるだろう。Zhong先生の発表タイトルは'An Emotionist Solution to Smith's Metaethical Puzzle'というものであり、マイケル・スミスが提示した認知主義、内在主義、動機付けに関するヒューム主義の間の不整合の問題を、これら3つの立場を変えることなく感情主義の観点から解決するという野心的なものだった。私が現在主たるテクストとして研究しているアダム・スミスの『道徳感情論』の主題もまさに道徳判断と感情との関係であり、Zhong先生の発表には大いに共感させられるところがあった。
哲学を研究する東アジアの他大学の先生・学生と学的交流を持てることが、BESETO会議の最大の醍醐味であるには違いないが、また別の大きな意義としてここで特筆しておきたいのは、(鈴木先生も羽田での解散時におっしゃっていたが)普段それほど交流のない東大内の他研究室の先生・学生と知り合う絶好の機会だということである。個人的には、(残念ながら発表は聴けなかったが)科哲の院生である朴さんから心の理論に関する話を伺えたことが、アダム・スミスの共感概念との関連で関心を持っていたこともあり、大変意義深かった。
私自身の発表についても触れておこう。私の発表は2日目の午前中で、発表のタイトルは'Utility of Morality: Asymmetry between Helping and Harming'というものだった。内容は、援助義務と危害禁止との間の非対称性といった側面に見られるような、道徳それ自体が持つ効用とその目的論的説明、さらにその倫理学方法論における意義に関するものだった。特に英語での質疑対応が拙く、今後の課題としなければならないと感じたが、発表そのものは他大学の複数の先生・学生から明晰であるという感想をいただき、その点は大きな自信となった。内容に関しては、特に北京大学のLiu Zhe先生から不明瞭な点に関し批判的なご指摘をいただき、勉強になった。
最後になったが、今回参加するきっかけを与えてくださった一ノ瀬先生、現地で噂に違わぬ歓待ぶりを示してくださった北京大学のみなさま、そして、事務関係の手続きを行ってくださった本郷・駒場のGCOE関係者のみなさま、特に(直接お会いする機会はなかったが)事前の手続きに奔走された中澤さんと、現地での取りまとめ役となってくださった池田さんに感謝したい。
2011年1月7日、第5回BESETO哲学会議に出席するため羽田を発った。行き先は北京、前年度のソウル開催に続き、二度目の参加である。年明けの慌しい時期、冬空の中を厳寒の地へと飛び立つことに、先立つ想いはしかし期待であった。初参加であった前年度の会議、初対面のしかも異国の研究者たちとの出会いにおいて、拙い英語での交流や厳寒の環境での不自由など覆して余りある温かい人の縁のありがたさを痛切に感じていたからである。はたして、その期待は裏切られなかった。北京の空港で迎えてくれた北京大学の院生たちの歓待、その気配りの繊細さ、そして前年度に出会ったソウル大学の院生とのレセプションパーティでの再会と談笑。この喜びは、気軽に交流をもてる近郊の研究者たちとの親交におけるものとはまた違う、格別のものである。日本、中国、韓国における若手研究者同士のこの上なく貴重な交流の機会の意義を身に沁みて実感しつつ、その場を担う一員としての責任と自負をもって自らの研究発表にも気を引き締めて臨むことができた。国内で積み重ねてきた初期フッサール研究の中心的な洞察を国外で初めて披露したものが前年度の第4回会議での発表であったとすれば、今回の第5回会議での発表は国内での今後の研究への展望を描くための端緒を拓く内容であった。とりわけ北京大学の研究者諸氏から、この発表についていくつかの貴重な反応をいただけたことは、今後の研究への刺激材料として大いに参考にすることができるだろう。こうした、異質な環境で研究している人々との関心や視点の相違、そして共通点を確認し、前者を刺激とし、後者の共有をお互いの研究の自信となすことができるこの機会は、国際交流の機会に比較的乏しくなりがちな我が国の若手研究者にとって、大切に受け継がれ発展させられるべき財産であると信じるものである。