第四回BESETO哲学会議
(グローバルCOE「死生学の展開と組織化」からの派遣事業)
一ノ瀬報告 景山報告 島村報告 高橋報告 富山報告 丸山報告 八重樫報告 萬屋報告 和田報告
一ノ瀬 正樹 (哲学研究室・教授)
去る2010年1月7日・8日の二日間にわたって、韓国ソウル大学にて「第4回BESETO哲学会議」(The 4th BESETO Conference of Philosophy)が「東アジアにおける哲学の未来」(The Future of Philosophy in East Asia)というサブタイトルのもと、開催された。以前にもこの哲学研究室HPで報告したことがあるが、「BESETO」とは、「北京」(BEijing)、「ソウル」(SEoul)、「東京」(TOkyo)の三都市の頭文字二つを取って並べたもので、本学では、北京大学、ソウル大学、東京大学の三大学のアカデミックな協調態勢を意味する。「BESETO哲学会議」は、こうした「BESETO」の理念のもと、三大学の、哲学を中心とする人文系の教員や院生が集い、研究発表を行う場として、毎年三大学持ち回りで開催している国際会議である。今回の第4回会議は、ソウル大学にて、ナンミン・リー教授を主たるオーガナイザとして開催され、総計で59名のスピーカーが参加するという、大変に盛大なものとなった。すべて英語で行うという方針のもと、東アジアの三つの大学の間で、まことに実り多い討議が繰り広げられた。東京大学からは、スピーカー以外の参加者も含めて計24名の教員・院生が参加した。これは、哲学研究室にとっての一大行事であるとともに、本郷のグローバルCOE「死生学」と、駒場のグローバルCOE「UTCP」との、共同活動でもある。参加者の内訳は、本郷から12名、駒場から12名であり、「死生学」からの参加者は全員が発表した。
会議は、三人の教員によるプレナリー・セッションからはじまった。最初に、北京大学のTianyue Wu 教授が聖アウグスティヌスの自由意志論に関する発表を行った。Wu 教授は「BESETO哲学会議」の常連で、今回も教授独自の観点から中世哲学研究を展開してくれた。二番目に私自身が発表した。私は、「Ontology and Ethics of Killed People」と題して、主として殺人の被害者の存在性をどう捉え、そして殺人という犯罪の意味をどう解すべきか、という問題について論じた。「BESETO哲学会議」の発起人の一人でもある駒場の村田純一教授が司会をしてくださった。私の発表は、「一体誰が死ぬのか」といった問いをめぐって今日盛んに展開されている「死のメタフィジックス」に関わる問題を、殺人という事象に適用したものである。要するに、死んでしまったら、その人は消滅するのだから、理論的には死ぬ「誰か」というのは存在しない、よって死んだ人(がいるとしても)は「死」からいかなる利益も害悪も受けることはないのではないか、という古代のエピクロス以来の問題提起を真摯に受け止めて、殺人という事象をメタフィジックスの観点から洗い直してみようという試みである。私は「害グラデーション説」という考え方を提起して、なんとか常識とのすり合わせをしてみた。先ほどのWu 教授から「害」の概念について質問を受けたり、質疑からも多くを得ることができた。さらに、三番目に、おりよくソウル大学に集中講義に訪れていたロンドン大学ユニヴァーシティ・コレッジのPaul Snowdon 教授が会議に参加し、自己知識に関する発表をした。教授は、自己知識に関して、言語行為だけでなく、認知状態をも考慮すべきだという趣旨の議論を、現代の論争の文脈に照らして展開した。三大学の会議とはいえ、ときおりこのように別な国からのゲストスピーカも参加し、国際会議らしい装いを帯びているのも「BESETO哲学会議」の一つの特徴である。
その後、いくつかの部屋に分かれて、院生たちのパラレル・セッションが行われた。また、翌1月8日には、午前中に教員によるもう一つのプレナリー・セッションが行われ、駒場の信原幸弘教授が脳科学的知見を踏まえて道徳的判断についての発表を行い、本郷の榊原哲也准教授がフッサールの直観と表現に関する発表を行った。私自身、すべてに参加することはできなかったが、印象に残る発表がたくさんあり、大いに刺激を受けた。全体として、ソウル大学の院生の発表は分析哲学に関わるものが多く、北京大学の方々の発表は大陸系哲学に関するものが多かった。また、東京大学の院生の発表についていえば、駒場の方々はいわゆる純哲ではない多様なジャンルの主題について発表し、本郷の方々は主として哲学研究室の人たちだったので哲学的な発表を行った。哲学研究室から参加して英語による発表を行った院生は、島村修平さん、高橋若木さん、八重樫徹さん、景山洋平さん、萬屋博喜さん、和田慈さん、富山豊さん、Chang Chityeeさん、の8名であり、それ以外に、美学研究室からLee Hyijinさん、宗教学研究室から丸山空大さん、が参加して発表した。いずれの発表も力のこもったものであり、そして、国際会議の場で英語で研究発表をする、という貴重な体験にもなったのではないかと思う。今後の研究の糧としてぜひ生かしていただきたいところである。
東アジアの三大学がこうした形で学術的協働を続けていくことには、院生の皆さんのトレーニング、三大学間の学術交流、東アジア地域からの学問的発信などの点で、計り知れない意義がある。本「BESETO哲学会議」は、「哲学」といっても広義で捉えているので、実質的に人文学すべてが関わりうる。私たち哲学研究室と死生学プロジェクトも、全体をあげてこれに参画していきたい。次回の第5回は北京大学にて、2011年1月8日・9日の二日間にわたって開催される。そして、その次の第6回はいよいよ本郷キャンパスで開催する順番である。大いに盛り上げて、東アジアという立ち位置から哲学・人文学を論じることの独自性と意義を、英語を通じて広く世界に向けて発信していきたい。
BESETOに参加させて頂くのは、この度ソウルで行われた第四回大会で二度目となる。ドイツ滞在中の筆者はヴッパタール―ソウル間を往復しなければならなかったが、今回も高額の交通費を支出するに惜しくない非常に有意義な大会となったので、特に印象に残った点をここに報告したい。
個人的に裨益されたのは、ソウル国立大学校のKan Jinho先生によるチョムスキーとウィトゲンシュタインに関する発表だった。自然言語意味論の支配的パラダイムに対する両者の批判に焦点を当て、その言語思想に親近性を見出すという趣旨だが、これにより、チョムスキー理解の展望と、筆者が専攻する現象学を言語学の豊富な知見に接続する可能性に目を開かれた。また、既に顔馴染みである北京大学のNing Xiaomeng先生とソウル国立大学校のPark Hyeon-Jeong氏の発表も有益であった。前者は、前期メルロ・ポンティにおける「沈黙のコギト」の理論的困難の解決を後期思想の「肉」概念に求める内容であり、後者は、特にヘーゲルに焦点を当て、人間的有限性を自覚しつつ無限に到達せんとする伝統的形而上学の両義的振るまいを批判的に整理するものである。Ning氏の発表については反省的自我の発生の問題が「肉」に上手く接続するのか、Park氏の発表については氏自身が剔抉したい存在の根源的有限性を探究する方法論がどれだけ構築されているのか、が疑問となった。だが、両者の論点は明快であり、提示された問題を筆者自身で考える機縁を与えてくれた。
筆者本人は、前期ハイデガーの方法論的難点の解決策を手懸りに、彼の後期思想において「自己性」概念が受ける位置とその構造を明らかにした。ソウル国立大学校のLee Nam-In先生および東京大学の榊原哲也先生が主張する通り、前期ハイデガーは存在者経験の先行条件を問う発生的方法を採用する。だが、ハイデガーの「転回」はこの発生的方法の限界の自覚として理論的に明確化されるものであり、そこからは、経験の起源に関する多元主義と、この多元性に直面する自己性の歴史的移行的な構造が導かれるのである。当日は、この特異な自己性の構造にこそハイデガー哲学の現代的意義が求められる事を発表の結論とした。多くの質問を頂いたが、その焦点は「多元主義」と、筆者が自己性の構造と見定めた「準備」的性格の厳密な規定にあった。特に、東京大学の石原孝二先生には現代現象学の多元主義とハイデガーのそれが正確に対応しないという鋭い指摘を頂いたので、その点の整理を今後行わねばならない。
今回は、ソウル・北京の友人と旧交を温められた他、韓国・中国の教員・院生と新たに知己を得ることもできた。哲学の営為は東アジアに限定されないが、地理的に近い三ヶ国の若手研究者が交流の基盤を作ることは、この地域の研究発展にとって不可欠であろう。ソウル国立大学校の皆さんが、この目的の為に献身的なホスピタリティを示して下さった事に、改めてお礼申し上げたい。
島村 修平 (哲学研究室・博士課程)
報告者は、1月7日から8日にかけて開催された第四回BESETO哲学会議に参加し、”Semantic Inferentialism and Social Externalism”というタイトルで二日目に口頭発表を行ってきた。参加者の発表は基本的に全て英語で行われ、それぞれの持ち時間はおよそ40分と比較的余裕があって、そのおかげで質疑応答の時間も十分に取られていた。報告者にとって、このような機会はとても貴重なものであり、英語を用いてまとまった分量の考察を展開する訓練を積めたことや、否応なく英語の質問を聞き取りそれに英語で答えなければならないという状況を経験できたことは、今後の研究活動にとって大きなプラスになると思う。また、さいわい発表内容に関しても、司会を務めて下さった先生や発表を聞きに来て下さった幾人かの人達から比較的好意的な評価を得ることができ、さらに、発表が終わってからいくつか内容に関する実質的な議論を交わすこともできた。これらの点でも、今回の発表は、報告者にとって非常に有意義なものだった。
今回の会議では、教員・院生を含め、全体として60弱もの発表が行われた。スケジュールの都合などもあり、報告者はそのごく一部を聞けたにすぎない。その中でとくに印象に残っているものの一部を挙げると、”The New Description Theory of Reference Fixing and the Solution to Semantic Objections” (Jeonggyu Lee氏)や”Does Divergence in Concept Threaten the Objectivity of Intuition?” (Dongho Choi氏)などがある。前者は、指示固定の問題に対して記述説的な発想を擁護・発展させようとするもので、議論が明晰に展開され、また独自の論点も含まれていて、刺激を受けた。また後者は、実験哲学という最新の動向が提起する概念共有の可能性の問題について考察するもので、報告者の関心とも近く、興味深かった。この二人とは、年代が近く、また研究している分野が近いこともあって、発表が終わってからも、研究に関係することや、研究とはあまり関係ないことまで、色々と話すことができた。こちらの英語の拙さもあって、円滑なコミュニケーションというわけにはいかなかったが、それでもとても楽しい時間を過ごせたと思う。
以上のように振り返ってみて、改めて今回の会議が自分にとって様々な点で有意義なものであったことを実感した。このような機会が今後も継続的に持たれていくのは、とても良いことだと思う。
今回、BESETO Conferenceにはじめて参加した。
BESETOの学会としての例外的特色は、北京大学、ソウル大学、東京大学の哲学系の研究者があつまる東アジアの国際的交流と、現象学、哲学史、分析哲学、儒教研究から、政治理論、宗教学、美学に至る、研究発表の学際性にある。滞在から学会まで、ソウル大学の教授陣や院生の方々の奔走と気配りに支えられ、発表後の質疑応答だけでなく、発表の合間や食事のテーブルでも、参加者はみな時間を惜しんで積極的にお互いを知ろうとした。また、単に多様な発表がなされるだけでなく、映画論の発表に、榊原教授が現象学的身体論の見地から質問をするなど、異分野のあいだに議論が成り立って行く場面が多く見られた。東大のなかでも、ソウルではじめて知り合った駒場や宗教学の院生もおり、BESETOは東大の学際性も促進していた。わたしの発表は政治思想に関するもので、やや異質だったが、ソウル大の鄭昊根(Chung Hogun)先生から、あえて触れなかった論点について質問を受け、異なる都市で同じことを考えていたことに興奮を覚えた。学会を離れてソウルを発ったあとも、BESETOで出会ったソウル大の政治理論研究者や、北京大の倫理学の研究者の方とコンタクトがあり、お互いの研究や論文を送って、論点を交換している。今回、現象学と英語圏の哲学においてもっとも三国の交流が進んでいるという印象を持ったが、同時に、BESETOは、政治思想、倫理学、美学の研究者のあいだで同様のネットワーキングが進む機会にもなりつつあると思われた。東アジアの学際的で国際的な哲学研究が、様々な専門において更に豊かになるうえで、BESETOは貴重な対話のフォーラムとなっている。機会があれば是非また参加したい。
寒波の折、ソウルは一面の雪景色。空港に着き、ソウル大の用意した宿泊施設まで向かう途中で、我々を盛大に出迎えてくれたのは凍てつく世界だった。
2010年1月6日に行われたレセプションから始まる三日間のBESETO会議の二日目、1月6日の研究発表者の一人として英語での口頭発表を行う機会を与えられ、私はソウルへと赴いた。発表の内容はこれまでの研究の概括に相当する内容であり、とりわけ日本語での成果発表がまだ手薄であった部分に力点を置いていた。主題はフッサールの初期志向性概念における意味と対象の相関構造、そして特にその意味のレベルにおけるイデアリテートとレアリテートの二層構造の解明である。はじめに、初期志向性理論における対象概念が判断の真理という概念と結びついた多分に意味論的な概念であること、そして指示対象をもたない無対象表象を許すフッサールの初期志向性理論において意味とは対象探索のプロセス、いわば目的の値を算出するための計算機プログラムに類比的なものであるという年来の主張を確認し、続いて意味のイデアリテートが要請される理由を簡単に確認した。そして、イデアールな意味の強調によって心理学主義的な先入見を脱した以後のフッサールが、何故それにも関わらず作用の構造分析すなわち意味作用の分析として意味論的考察を遂行したのか、レアールな意味作用とイデアールな意味自体との関係はいかなるものであるかを極めて不十分ながら最後に検討した。意味のイデアリテートが必要になる理由は、言語的コミュニケーションの場面、時間的に進行する思考や論証の過程、複雑なステップを経て遂行される計算プロセス、などの諸々の場面で、主体と時点の差を貫いて共通にアクセス可能な同一の意味というものがそれらの活動の有意味性を決定的に支えているからであり、この反復的なアクセス可能性こそ意味のイデアリテートの実質である。そして、意味自体と意味作用の関係とは、このイデア的意味のどれにどの主体がどの時点でアクセスを遂行したかを個体化する、いわば具体的ステップにおけるプログラムの起動と実行、すなわち関数と関数呼び出しの関係に他ならない。これは、いってみればイデアリテートという永遠不変の圏域に凍てつく意味を誘い出し、温かな血の通うレアリテートの世界へと受肉させることにほかならなかった。
そしてまさに、凍てつくソウルの雪景色に慄然としていた我々の旅を本当に有意義で楽しいものへと彩らせ、心からくつろがせてくれたのは、我々を迎えてくれたソウル大学の院生、教員のじつに温かで、そして繊細な気配りの行き届いた歓待のおかげであった。深甚なる感謝と親愛を込めてここで筆をおくことにしたい。
2010年1月8日から9日にかけてソウル大学にて開催された第4回BESETO会議の様子を簡単ながら報告させていただきたいと思います。宗教学研究室からは私一人での参加であったこと、初めての国際会議であったこと、ソウルは氷点下20℃まで気温が下がるらしいこと、などなど実は不安ばかりを抱えながら会議を迎えたのですが、始まってみると、各国、同世代の研究者たちの熱気に満ちた非常に刺激的な会議でそれらの不安はすぐに飛び去りました。特に、韓国や中国の若手研究者はもとより、日ごろ同じ大学で学びながら殆ど交流のなかった東京大学の方々とも、時に酒を交えつつ懇談できたことは、宗教学という小さな学科の中でともすれば「井の中の蛙」となりがちな自らを省みる格好の機会となりました。まずは、この会議を主催・運営してくださった方々、そして、本会議への参加を勧めてくださり、参加に際しては大いに支援してくださった島薗進教授に深く感謝したいと思います。
さて、自らの発表について振り返りますと、せっかくいただいた機会でありながら反省すべき点の多いものとなってしまいました。まずは、聴衆が少なかったこと。プロシーディングスに掲載された発表原稿の内容もさることながら、聴衆をひきつけるためのより分かりやすいタイトルなど、工夫が必要でした。内容に関しては、「証言」という概念を軸に、ローゼンツヴァイク、レヴィナス、デリダについて論じたのですが、口頭発表としては明らかに詰め込みすぎで説明不足でした。しかし、質疑の時間に、韓国と日本の研究者から特にレヴィナスの顔の概念と「証言」との関係について質問が出たことで、補足的な説明を加えることができたのは幸いでした。
会期中、最も印象に残った発表は、ソウル大学のJinho Kang教授によるチョムスキーの言語哲学についての講演でした。その内容の明晰さもさることながら、自然言語の境界の恣意性や政治性を問題にするくだりで、教授が済州島を例にとられたことに驚きを感じました。実際、私が聴講することのできた範囲では、ほとんど唯一、現実政治や東アジアの歴史問題とのつながりを感じさせる言及だったように思います。本会議では、「東アジアにおける哲学の未来」がテーマとして掲げられたにもかかわらず、“今、東アジアでこの三国の研究者が交流する”ということの意義を踏まえた発表は多くなかったように思われました。政治や歴史を直接の主題とすることがなくとも、哲学を行う私たち自身の足下から目を離しては、その未来を考えることもまた覚束なくなります。このような点を今後の課題として挙げることができるのではないかと感じるとともに、これについては宗教学研究室からも積極的な貢献ができるのではないかとも考えました。今後会議がより開かれたものとなり、交流の質がますます上がってゆくことを期待しております。
ソウル国立大学で行われた第4回BESETO哲学会議に参加し、研究発表を行った。以下、(1)私自身の発表と質疑の内容、(2)他の発表で特に印象に残ったもの、(3)会議全体の感想について報告する。
(1)私の発表は、二日目のセッション7A“Continental Philosophy”で行われた。発表題目は“Are Acts Actions? On the Change in Husserl’s Conception of Act”というもので、フッサール現象学の中心概念である「作用」の意味の変遷について論じた。初期の『論理学研究』では作用を、対象に向かう志向的体験として規定し、能動的な活動ないし行為といったニュアンスは一切含まないものとみなしていたフッサールだが、後期になると積極的に作用を行為として特徴づけるようになる。この変化の背景には、体験の担い手としての純粋自我が導入され、さらにそれが、状況に制約されつつ態度決定し、状況を変えていくことのできる行為者として特徴づけられるようになったことが指摘できる。もっぱら「静態的現象学から発生的現象学へ」という方法論上の変化として整理されがちだったフッサール現象学の前期から後期への展開には、こうした「行為論的転回」と呼ぶことのできる側面がある、というのが発表の主旨だった。
発表に対してフロアからは、純粋自我と人格の概念上の区別をどう考えるのか、行為者性を体験の分析に取り込むとしても、必ずしも純粋自我を行為者として考える必要はないのではないか、といった質問がなされ、今後の研究にとって重要な示唆を得ることができた。
(2)フロアで聴いた数多くの発表の中で、Li Zhongwei(北京大学)の『論理学研究』についての発表と、Jung Tae-Chang(ソウル国立大学)の心理主義(psychologism)についての発表は、私自身の関心と重なることもあり、特に興味深かった。Li Zhongweiは私がドイツのケルン大学に留学していたときからの親友でもあり、研究の進展を目の当たりにすることができて嬉しかった。
(3)会議の全日程を通して、ソウル国立大学の教員・学生の皆さんのホスピタリティには驚くべきものがあった。心から感謝を申し上げたい。タイトな日程ではあったが、そんな中でも多くの研究者と知り合うことができ、有意義な議論ができた。また、留学時代のもう一人の友人Kim Tae-Heeに連れられて行った居酒屋での楽しい夜は、私にとって今回の旅のハイライトとなった。2年後、東京大学で第6回の会議がおこなわれる際には、必ずや彼らに恩を返さねばなるまいと誓いつつ、報告を終える。
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私は、先日ソウル国立大学で開催された第四回BESETO哲学会議に参加し、二日目午後の第五セッションにて「The Problem of Accidental Regularities in Hume's Philosophy」と題した発表をおこなった。
私の発表の目的は、ヒュームを端緒とする「偶然的規則性の問題」という科学哲学上の議題をとりあげ、その解決策がヒュームによって先取されていることを示す、ということにあった。偶然的規則性の問題とは、例外を認めない厳密な因果法則と単なる偶然的な一般化はいかなる基準によって区別されうるのか、という問いである。
私の発表の結論は、社会的成員の合意がヒュームの提示する当該の区別の基準である、というものであった。具体的に言えば、われわれは社会的合意によって、当初単なる規則性にすぎなかったものを、歴史的に「例外のなさ」に関する証拠を獲得してゆくにつれ、因果法則と認めるようになった、という結論である。
この結論については、多くの観点から批判的な質問が寄せられた。例えば、私の議論は自然主義的誤謬を犯しているのではないか、というものである。この質問に対しては、ヒュームは事実から価値を論理的に導出しようとはしておらず、むしろ事実に価値を歴史的に付与してゆく過程の一般構造を記述している、という主旨のことを答えた。さらに、私の議論は前半で批判した因果の規則性説に吸収されるのではないか、証言や合意などの間主観的な要因だけで問題の解決になっているのか、といった質問も提起された。限られた時間のなかでこれらすべての質問に対して適切に応答することはできなかったが、発表後の会食の場などにおいて議論を重ね、今後の課題と目標を明確にすることができた。この場を借りて、特に質問を寄せていただいたソウル国立大学のOH Jae Joon氏とMyungsoon Lee氏、北京大学のPeng Dong氏、ならびに東京大学の一ノ瀬正樹教授と信原幸弘教授に感謝したい。
最後に、会議全体の感想を述べておく。私は今回が二度目の参加であったが、過密スケジュールのなかでも非常に充実した時間を過ごすことができた。何よりも日本・韓国・中国の若手研究者が、 同じ場所に集い哲学の議論を自由に交わすという得難い経験は、筆舌に尽くし難い喜びへと昇華していったように思う。単なる国際交流にとどまらない哲学的議論の場として、私はBESETO会議が今後とも続いてゆくことを切に願う。
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私は2日目最初の共同セッションにおいてContinental Philosophyの枠で発表を行いました。タイトルは”Kant’s Notion of Judgment and its Truth”というものです。認識にまつわるカントの理説はしばしば、意識による対象の「構成」や悟性、感性、構想力など認知的諸能力などに着目して語られますが、私の発表の目論見は、認識に際してなされる諸対象の区別・分類など顕示される所作や、そうした作業を遂行するための方法・手続きに注目しつつ、認識という活動を捉え直すことにありました。そうすることで、「統覚の統一」や「図式」などの諸術語に通例とは異なる角度から光を当てることができるのでは、と考えてのことです。。
この発表に対し、北京大学のNan Xing氏から二つの質問が提起されました。内容はいずれもカント解釈の機微に関わるものでしたが、その意図を振り返ってみると、「発表者の注目する事象は、いずれも心理学的・経験的に分析されうるものであり、カントの理説を知識に関する規範的な理論と解する根拠とその意義はどこにあるのか」と総括できることに、最近思い至りました。これはおそらく、カントの数学論を自然主義的に読解するという氏の関心に由来する問い掛けだと思われます(実際、氏の発表タイトルは”Naturalized Kantianism in Philosophy of Mathematics and Arithmetic in Particular”でした)。氏の質問は、いわゆる反自然主義の哲学者としてカントを解していた私にとって、思いも寄らぬ方向からの提言であると同時に、考察すべき問題を(カント内部から!)鮮明にしてくれる、大変貴重なものでした。
学会での質疑応答や、それに起因する着想の獲得は、それ自体なんら珍しいものではなく、これを以ってBESETOの意義を語ることなどできよう筈もありませんが、少なくとも私にとっては一期一会の機会であったのも事実です。そうした会議への参加がグローバルCOE「死生学の展開と組織化」の支援により実現したことについて、この場を借りて感謝申し上げます。また、機会そのものを与えてくださった榊原先生、一ノ瀬先生を始めとする関係者各位、会議という「場」を準備し、発表後には和やかな雰囲気で昼食を共にして頂いたソウル国立大学の皆様に感謝の意を表し、私の報告を閉じたいと思います。