南三陸町でのボランティア活動について

翟 一達

みなさん、こんにちは。2011年の東日本大震災の際に、みなさんはどこにいましたか。私は日本にいました。大震災のあと、多くの外国人が帰国しましたが、私は日本に残っていましたので、日本の防災、復興のための政策や日本の人々の震災への対応などを実際に知ることができ、大変勉強になりました。震災当時、日本に留学していたみなさんも、いろいろな報道、写真、ビデオを通じて、そのときの状況はよく知っているかもしれません。それで、今日は地震の9ヶ月後の2012年のお正月に、東北地方の宮城県の南三陸町で体験した、私のボランティア活動について、お話ししたいと思います。

南三陸町がどこにあるか、皆さんはご存知でしょうか。この地図をご覧ください。南三陸町はここです。地震や津波の大きな被害を受けた町です。 2012年のお正月を前に、私は、被災地の人々は例年なら楽しい気持ちでお正月を迎えるだろうに、今年はどのような気持ちで新年を迎えるのかと考え、胸を痛めていました。できれば、被災地の子供たちのために何かお手伝いしたいと思っていました。そこで、この考えを共有したほかの7人と一緒にボランティア活動に参加することにしたのです。

我々は南三陸町で主に三つのことをしました。一つめは南三陸町の子供たちへの学習支援です。二つめは子供たちと保護者のためのお正月パーティーです。三つめはガレキの処理のお手伝いです。

これは震災後の南三陸町において、とりあえずつくられた子供たちの図書室です。これは段ボールで作られた本棚です。その中にこの本を見つけました。宮沢賢治の「注文の多い料理店」の話が載っています。この話は夏学期の日本語集中授業の時、勉強したので、親しみをおぼえました。

この写真は一日めの学習支援が終わってから、夜8時ぐらいから始まったパーティーの様子です。被災地の子供を中心に、保護者にも参加していただきました。今回出会った子供たちの中には、家族が亡くなり、とても酷いショックを受けている子もいました。パーティーでは、ゆでた団子を作ったり、面白いゲームや漢字のクイズをしたりと、いろいろ工夫しました。子供たちが笑顔になるのを見て本当にうれしかったです。

この写真は私たちが仮設住宅を訪問した時に撮った写真です。そこで、仮設の住民の方と話してみて、これからどうしたらよいかわからないと思っている人が少なからずいると感じました。国の政策がはっきり決まっていないため、被災者の方々は将来の計画が立てられず、不安を抱えていたのです。仮設住宅の中のテレビ、洗濯機、冷蔵庫などの電気製品は日本赤十字から無料で提供された物だそうです。住民の方々は感謝の言葉を口にしていました。

ところで、南三陸町でのボランティア活動を通じて、私が一番驚いたのは9か月経っても、南三陸町のガレキが山のように残っており、処理が終わっていなかったことです。被災地の方々の苦しみへの配慮が足りないと感じました。私たちは微力ながらガレキの処理のお手伝いもしました。

この写真は南三陸町の防災対策庁舎です。当時話題になりましたが、24歳の女性アナウンサー、遠藤未希さんが、防災無線で「津波が来ます。高台に逃げて下さい!」と何度も町民に避難を呼びかけました。遠藤さんは危険をかえりみず、最後まで庁舎に残って避難誘導をアナウンスし続け、亡くなられてしまったのです。ボランティアの私たちは庁舎の前で、亡くなった方々の冥福をお祈りしました。

 多くの人々はこの病院の屋上に避難し、助けられたようです。

これは津波の巨大な力に襲われた車の様子です。

南三陸町のボランティア活動で一番印象深かったのは被災地の子供たちの様子です。私はその子たちの姿に感動しました。先ほど申し上げたように、家族が亡くなり、とても酷いショックを受けていた子も大勢いました。でも、最悪のことを経験した被災地の子供たちは、これからの人生の中でどんな困難に出会っても、勝てると思います。その子たちはきっと、地震や津波の被害に負けず、心の強い人になってくれると信じています。

私は東北地方の復興や被災地の子ともたちの成長を心より祈っております。震災から2年経ちましたが、復興の道はまだまだ長いです。みなさんもできる範囲で被災地の人々を応援してください。 

ご清聴ありがとうございました。