対話的文明に向けて
公的知識人としての宗教指導者
杜 維明(ハーヴァード大学イェンチン研究所長、米国)

日時:
3月24日(木)13:30〜17:30

主旨:
「公的知識人public intellectual」という概念は、ヒンドゥー教、仏教、ユダヤ教、ギリシア(正教)、キリスト教、イスラームなど、いずれの諸伝統にもその原形をもたないように思われる。しかし、伝統的なグル、僧侶、ラビ、哲学者、司祭、ムッラーなどは、機能のうえでは近代の知識人と同じ存在ではないにせよ、いずれもが、おそらくは意図せずして公的知識人としての責を負っている。政治に関心をもち、社会へと関わり、文化について鋭敏――そのような存在としての公的知識人がもつ高邁なる志とは、世界市民たること(world citizenship)である。そして現在のグローバル化の時代にあっては、対話的文明(a dialogical civilization)の出現により、世界市民なるものに基盤が与えられるようになった。対話的文明とは、ヒューマニスティック(人間的)、かつスピリチュアルなものである。それは地球と身体と共同体に根ざす一方、エゴイズム、偏狭な郷党心、自民族中心主義、人間中心主義などを超越するものでもある。その精神(スピリット)は人々の日々の生活に埋め込まれていて、同時にまた、ますます拡張しつつあるヒト=コスモス的な相互連関(anthropocosmic inter-relatedness)へと向かってもいる。

対話的文明が想定するもののひとつに、地球/現世(ジ・アース)の神聖さがある。すなわち、俗なるものは聖であり、この世の営みは本質においてスピリチュアルだというのである。公的知識人たる宗教指導者にとっては、「浄土」、「神の王国」などは深遠なる意味で人間的(ヒューマニスティック)である。彼ら/彼女らは、生の究極の意味は現世の今ここで実現できる、との思いをいだいている。実に「軸の時代」の文明はすべて、人間性の危機に対応しつつ根源的な変容をくぐりぬけてきた。事実上すべての宗教指導者たちが、環境悪化、絶望的な貧困、社会崩壊、テロ、暴力、犯罪、ドラッグなどを緊急の課題として真剣に受けとめている。みずから人間への愛と慈悲をもって任じてこそ宗教であるということからすると、残忍な拷問から毎日の退屈さにいたるまで、あらゆる形の苦難に立ち向かうことが宗教指導者の取りくむべき課題なのである。

公的知識人たる宗教指導者は、二つの言語に習熟している。ひとつは、集団内部の連帯とコミュニケーションに欠かせない、自らの信仰共同体のメンバーたちと共有する言語である。いまひとつは、世界市民の言語であって、これは対話的文明の安寧に不可欠の言語である。こうした二言語使用が暗に意味するのは、ある共同作業が必要かつ望ましいということである。すなわち、神学、象徴、瞑想、祈祷、崇拝、儀式、実践などあらゆるレベルで宗教どうしのコミュニケーションを育んでいこうとする共同の努力、これが必要かつ望ましいということだ。他の言語に通じることは、おのれの母語への自覚を高めることにもなる。以上で構想されている対話的文明は(すべてを一つに溶かし込む)ルツボではない。いくつもの宗教伝統が息を吹き返し、さまざまな信仰共同体が活性化して合流する姿が思い描かれている。このような「多様性のなかの統一」、「画一性なき調和」は、人類の存続、繁栄にとって死活にかかわる重要性をもっている。



トゥ・ウェイミン(TU Weiming、杜維明)

ハーバード大学中国史・中国哲学及び儒教学教授。ハーバード燕京研究所所長。1961年台湾東海大学卒業、1963年修士号取得、1968年ハーバード大学より博士号取得。これまでプリンストン大学で4年間、カリフォルニア大学バークレー校で10年間教鞭をとってきた。英語で11冊、中国語で12冊の著作がある。そこでは生きた伝統としての儒教が論じられている。現在は儒教的ヒューマニズムの現代的変容についての研究をおこなう。2001年には5巻からなるモノグラフ、エッセイ集が中国で刊行された。コフィ・アナン国連事務総長が召集した文明間の対話促進のための「賢人会議」のメンバーであり、ダボスで開催された世界経済フォーラムの参与者でもある。このほか、アメリカ芸術科学アカデミーのフェロー、浙江大学と人民大学の名誉教授、上海社会科学院の名誉研究員にも就く。ミシガン州グランド・バレーのレハイ大学、及び山東大学より名誉博士号を授与されている。