方法なき理論の価値について

増澤知子(ミシガン大学、米国)


日時:
3月30日(火)9:00〜10:30

主旨:
信頼に足る経験的証拠を欠いた理論、あるいは実用可能な立証方法を欠いた理論ほど、疑念をかき立てるものはない。今や前科学的な過去へと置き去られた、先駆的な宗教学者たち(Religionswissenschaftler)の粗野にして冒険的、そして放逸な推論のごとき諸理論はまさにそのようなものであった――私たちはそう学習してきた。しかし、学的正統派のこれら教条的な諸原則と道徳的な非難という限界の彼方に視線をやったとき見えてくるのは、実世界にあっては、特定理論がまき起こす疑念や不信は、その理論の広範な普及の妨げにはならないこと、そして逆行できない効果を生み出す妨げにもならないことである。この真理を例証する現象としては精神分析理論を引き合いに出すことができよう。

今日、フロイトの擁護者、精神分析の支持者として自らを積極的に身分証明する人の数は、一般社会のなかで言えば、総体的に小さい。数少ない人たちが実際に「信仰する」、あるいは確実性と真実性を活動において保証しようとする何らかのシステムからすれば、精神分析の言語は、それをおそらくは「買わない」まさにその人々の間で、特段の人気と容易な流通性を享受しているものに見える。無意識の欲望から些細な言い間違い(口が滑る)まで、エディプス・コンプレックスから死の欲動まで、フロイト主義とマーキングされる事柄は私たちの日常生活に溢れかえっている。ポップ・カルチャー、マスメディア、広告産業などは精神分析の圧倒的効力の証を立てているかのようだ。理論において根源的に疑わしいものが、実践においてかくも抗しがたい有効性を発揮する、これはいかにして可能なのか。

現代世界における精神分析の配置のこの壮観なる矛盾を出発点とし、私は、明らかに信頼に足らない理論がときに持続的効果を得るようになるのはいかにして、また何故なのか、そして、私たちが「理論」と呼ぶものと私たちとの関係についてのこうした現象から何が推断可能であるのか、これらの点について、ひょっとして重大であるやもしれぬ考察の糸口を示したいと思う。


増澤 知子(ますざわ ともこ)

ミシガン大学助教授。比較文学と歴史学を教える。宗教史・宗教理論と文学理論の領域を横断しながら、批判理論の立場から宗教言説を検討してきた。宗教学の理論や宗教史の学としての政治性に鋭く切り込むその意欲的な研究は、宗教史や宗教理論研究だけでなく、カルチュラル・スタディーズをはじめとする現代的な思想潮流に新しい風を吹きこんだ。著書『夢の時を求めて――宗教の起源の探求』(原書1993、邦訳1999) は、デュルケム、ミュラー、フロイトを読み直し、宗教の起源をめぐる討究のありかたを批判的に論じる。近刊予定のThe Invention of World Religionsでは、近代西欧思想において「世界宗教」がどのように立ちあらわれてきたのかを分析している。