スーフィズム ―― 意味の探求
Le soufisme ou la quète du sens
シャイフ・ハーレド・ベントゥネス(アラウィー・スーフィー教団教団長)

[ 3月26日 20:00−21:30]

「先生、あなたは誰なのですか」という問いに対して、私の祖父であれば、「私は兄弟姉妹のひとり」と答えたことだろう。これは、さまざまな顔をした人間がいるなかで、誰もが抱くだろう実存的な疑問に対するひとつの認識の在り方を示すものである。すなわち、「自分とは、一体、何者なのか」、「なぜ、自分は存在するのか」、「自分はこれからどうなるのか」、「そして死んだ後は?」

スーフィーの伝統とは、まさにこの意味の探求の一環をなすものであり、それは神が自らの創造物のなかに自己を具象化し、その姿を見ようとして、この世を創造したことを想起することでもある。すべての被造物に共通する源について真の自覚をもつことは、われわれが自らのアダム的本性と調和することでもある。スーフィズムとは、したがって、普遍的人間に体現された一体性を再発見するために、人種や宗教、文化の溝を越えるようにとわれわれを誘うものである。

しかし、人間が同胞愛を共有する状態にまで至るには、霊的教育を通して人間の劣等な状態からの影響を弱めることによって初めて可能となる。下の図は、幾つかに区分された円によって、タサッウフ(tasawwuf: アラビア語でスーフィズムのこと)が象徴的に表すものを示したものである。形而下の部分には、先ず、鉱物、植物、そして動物の状態が含まれるが、これらはわれわれの行動に大きな影響を及ぼしている。人間存在に、より内的な意義を付与するためには、これらの部分と精神的な部分との均衡が図られる必要がある。理性とは、人間が思惟的存在として振る舞うことを可能にするもので、この均衡を図る役割を果たしている。



しかしながら、その役割には限界がある。というのは、理性には信条(conscience)が伴わなくてはならないからである。そのため理性は、それを普遍的信条にまで高めるための案内役の存在を必要とする。内的探求とは、つまり自分自身についての正真正銘なる探求作業であり、それは完全な謙虚さと誠実さ、そして同胞愛を必要とするものである。それらなしに神の愛を経験することはあり得ないのである。健全で均衡の取れた生活だけが、スーフィーに永遠なる神の存在を感得させ、またすべての被造物を通して神を見ることを保証するのである。


しかしまた、彼らが求める内的な一体性とは、社会が実現しなくてはならない外的な一体性をも伴わなくてはならないものである。これについて説明するために、また次のような円を用いてみよう。

最初の中心部にある円は、「哲学的体系」に相当するものである。これは動態的な中心で、普遍的価値や公正な正義のもとに社会を統合する役割を持つエリートたちを突き動かしているものである。しかしながら、社会がこの中心部を失うや否や、それは党派のさまざまな利害によって分断された「政治的体系」へと変形していく。この中心からさらに遠のくことは社会をさらに細分化し、弱体化させ、ついにはもっと外にある原理、すなわち金銭的力のみがものを言う「経済的体系」をもたらすことになる。

今日、われわれの文明の退廃した現実を否定することは難しいように思われる。しかし、より多くの人々が信条をもって改善の方法を探っているという事実は、新しい希望の兆候と言える。この希望とは、われわれに平和と叡知とを思い起こさせ、他者のなかに兄弟姉妹のひとりを認めることを可能とするものである。