文章表現Ⅱクラス  自由テーマの小論文

日本語の「ノダ」文と他の言語の類似構文

 

韓国朝鮮言語社会   鎮浩(韓国)

 

日本語において、所謂「ノダ」文は非常に頻繁に使用される表現で、様々な意味ないし用法を持っている。その代表的な用法は次の通りである。

(1)(背後の事情についての)

A:元がありませんね。 B:ゆうべ眠れなかったんです。

(2) 前置き

あのう、東京へ行きたいんですが、この道ですか。

(3) 告白

は、私、今月で社やめることにしたんです。

(4) 言い換え

娘の校は中高一貫校です。つまり、高校入試はないんです。

(5) づき

[友達から手作りケキをもらって]へえ、君はケキがけるんだ。

(6) 注意命令

遊んでばかりいないで、勉もするんですよ。

(7) 決意表明

A:どうしても東京へ行くの?やめなさいよ。 B:絶行くんだ。

(8) 疑問文とその答え

A:その車、君が買ったんですか。 

B:いや、僕が買ったんじゃなくて、父が買ってくれたんです。

 

この「ノダ」文については多くの究が蓄積されているが、そのほとんどはこの様々な用法を一つの「意味ラベル」で纏めようとするものである。「背後の事情」(田野村1989)、「明」(1990)、連付け(名嶋2007、近藤2009)などはこのような背景から提案されてきた「意味ラベル」である。一方、「ノダ」文の様々な用法を一つに纏めようとするよりは、いくつかの変数に基づいて整理しようとする究もある(野田1997)。いずれにせよ、この様々な用法が一つの多義的な構文をなしているとみる点では一致していると言える。本稿では所謂「ノダ」文が一つの構文ではなくて、は二つの構文だということを主張する。つまり、「注意命令」「決意表明」は他の用法から分離して別の構文とみるべきだと考える。(以下、前者を「意志」の用法、後者を「明」の用法と呼ぶことにする。)その根は次の通りである。

第一に、「意志」の用法では、「のだ」の前にる述語が非過去形でなければならないのにし、「明」の用法では過去形でも非過去形でもよい。

(9) a. ぐずぐずしてないで、さっさと移動するんだ!

b. *ぐずぐずしてないで、さっさと移動したんだ!

第二に、「意志」の用法では、「のだ」の前にる述語がほぼ動詞に限定されているのにし、「明」の用法では動詞形容詞名詞のいずれでもよい。

(10)[Bが正装している] A:お出かけですか。 B:友達の結婚式なんです。

第三に、現代語の「ノダ」文の前身と言われる、古典日本語の所謂「連体-ナリ」(用言の連体形に定の助動詞「なり」がついたもの)には、「明」の用法はあっても、「意志」の用法はない。

第四に、日本語の「ノダ」文と形式意味の方で非常に類似した、他言語の対応構文は「明」の用法だけで、「意志」の用法はない。例えば、英語の「it is that」構文は「明」の用法だけを持つ。

(11) He was shot in his house. It is that he knew too much.

(彼は自宅でたれた。彼は知りすぎていたのだ。)

英語の他、ドイツ語フランス語スペイン語イタリア語ハンガリアイヌ語チベット語などにも形式意味の方で類似した構文が存在する(大竹2008、杉村19801982、高橋2012)。

第五に、日本語の「ノダ」文と形式意味の方で非常に類似した、韓語の「-은것이다」構文も、日本語の「ノダ」文と同、「意志」の用法ではその前の用言が非過去形でなければならないのにし、「明」の用法では過去形でも非過去形でもよい。

(12) a. 그는 자꾸 엄마 사진을 꺼내 본다. 엄마가 보고 싶은/싶었던 것이다. (明」)

b. 오늘밤 우리 데까지 보는/* 거야. (「意志」)

 以上の事を考慮すれば、「明」の「ノダ」文と「意志」の「ノダ」文は、一つの多義的な構文ではなくて、同音異義的な二つの構文とみたほうがよいのではないかと考えられる。同音異義的な二つの言語表現は意味上どんながりもないはずである。したがって、このような二つの表現の間になにか意味上のがりを探してこれらを一つの「意味ラベル」で纏めようとする試みには然無理が生じる。例えば、「上」を意味する「かみ」と「神」を意味する「かみ」は同音異義語であるのに、この二つの語の間に共通性を求めてこの二つの意味を一つに纏めようとする試みはナンセンスに近いだろう。この二つの語は上代語で一つは甲類、もう一つは乙類なので、多義語ではなくて同音異義語であることは確かである。同じ意味で、二つの「ノダ」文の間でがりや共通性を求めるのはナンセンスなのではないか。

 このことは「記」というものの本質についても示唆するところがあると思われる。ソシュル(Saussure)が記をシニフィアン(形式)とシニフィェ(意味)の結合とみなしたのにし、メルチュク(Mel’čuk)はそれにコンビナトリク(統語的結合的性)を加えて、記をこの三つのtripletとみる新しい考え方を提示した。この点に基づくと、二つの「ノダ」文は別の記であることが分かり易い。この二つは統語的性が違うからである。

 勿論、多義語と同音異義語の間の境界線が定かではない場合もかなりある。例えば、フランス語の動詞「voler」は「飛ぶ」という意味と「む」という意味を表すが、現代の一般のフランス語の話者はこの二つを同音異義語だと思っている。二つの間に意味上のがりがあまり感じられないからである。しかし、この二つは本一つの語から派生した用法である。すなわち、本は多義語であったのである。本は多義語で、今日では同音異義語であるという場合は、この語の史的遷のある段階では、多義語か同音異義語かという判が難しい場合も十分あり得る。しかし、二つを分ける境界線が明確でないということが、この二つの範疇の存在それ自体を否定する根とはならない。例えば、虹の中のの間に明確な境界線はないが、という二つの色を認めるにはどんな困難さもないのである。

「ノダ」文の場合も、二つの用法が多義語に近いか同音異義語に近いかについて論難があり得る。筆者もこの問題について開放的な態度を取っている。それにしても、「ノダ」文の二つの用法が同音異義的なものであるという可能性については、これまで十分な討がなされていないようである。

最後につけ加えたいのは、言語の通時的究および言語間の究の大切さである。「ノダ」文の前身である「連体-ナリ」構文に「意志」の用法がないという事に注目すれば、現代語の「ノダ」文の「意志」の用法は他の淵源から生じたものだという結論に自然に導かれるはずである。日本語だけではなく、世界の様々な言語の連構文を見ると、これらの対応表現の間に存在する共通性とずれが見えてくるだろう。このような討によって、一つの言語だけを見たときには得られなかった洞察を得ることができると思う。

 

考文

大竹芳夫(2008)「「の(だ)」構文に対応する世界の諸言語の構文 : 今後の「の(だ)」構文究の可能性を求めて」『信州大学教部紀要』120

田靖雄(1990)「明(その1)」言語学研『ことばの科4』むぎ書房

杉村博文(1980)「「の」「のだ」と「的」「是……的」」 『大阪外国語大学学報49

杉村博文(1982)「「是……的」:中語の「のだ」の文」『講座日本語12:外語との』明治書院

高橋靖以(2012)「アイヌご十方言における証性と述類型」『日本言語学会145回大予稿集』

田野村忠1989)『現代日本語の文法:「のだ」の意味と用法』和泉書院

名嶋義直(2007)『ノダの意味・機能:関連性理論の観点から』くろしお出版

野田春美(1997)『「の(だ)」の機能』くろしお出版

野村剛史(2012)「ノダ文の文法記述」『国語と国文学』東京大学国語国文学会